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随並183 第二末法における少数正論差別依存症の発症と流行

多数決・代理権(特権)といったものは時間的な関係です。

 たとえとしては何ですが、某国の某政党の場合、
 5年に一度全国代表大会(n全大会)があり、
 1年に一度その代理代表からなる中央委員会全体会議(n中全会)があり、
 1か月に一度その代理代表からなる中央政治局会議があり、
 1週間に一度その代理代表からなる中央政治局常務委員会があります。
 各代理代表部門は事後でチェックされます。

 日本の場合、だいたいウェストミンタ―ですので、
 国民投票で憲法を制定し、
 その代理代表による国会にて法律を制定し、
 その実質執行部門である内閣にて政令などの閣議決定事項を決定し、
 その代表である首相に緊急時などの首相専権事項があります。
 それぞれ後でチェックされます。

 多数決、代理と言ったものの役割はここまでです。

 過去に述べた通り、各議論の場では、たいていは、自分の方が正しいと思えるところと、先方の方が正しいと思えるところがあります。
 前者はまぁいいとして問題になるのは後者の取り扱いです。
 激高だと負担もなかなかですからこれはそれほど長くはないでしょう。

 問題は負担があるにも関わらず割とズルズルやられやすいものです。
 それが少数(マイノリティー)差別で、たとえば、肌の色がとか、性別が、とかです。
 とはいえこれは最近は表立ってやりにくくなっています。

 その結果、状況はかえって悪化し、差別の対象は、あろうことか「正論を述べられる者」になるという有り様です。
 かつてはあれは「反抗期」との呼び方でした。
 ですが今はそちらが主流となりました。
 このため、「社会」「大人」「コミュニケーション」と言った言葉がことごとく善悪反転状態で用いられています。
 
 もちろん負担状態です。本質は反抗期ですから。
 赤信号もみんなで渡れば怖くない、といった趣旨です。
 ですがそれは赤信号ではなく踏切かもしれません。
 踏切と間違える事例は一部少数、とか、踏切を渡ったけど大丈夫だったという自慢話などがありますが、結局自分が渡っているのが赤信号なのか踏切なのかは自分では気づけないでしょうからその負担からは逃げられません。
 なお間違えて踏切ではねられている事例は頻発中です。
 でわかっているのにやめられていないので、「依存症」状態です。「反抗期」「同調圧力」などでは響きに違和感を覚えます。

 タイトルの症状名が長くなってしまいましたが、長くなればなるほど悪化しているものです。
 もちろん、依存症集団の方々で成りたっている「自称社会」は実は「路地裏の不良」か「泥酔の集団」ですのでなかなかにご迷惑です。
 泥酔状態の者から、交流がとれない、などと言われても、これはこちらの台詞ですし、隔離が要るのはどちらかも考え直しでしょう。
 例えば、パチンコなどは合計で見ると必ずマイナスになるにもかかわらず、一度プラスが出るとそれにつられて続けてしまう心理を狙っているそうですが、概ねこれと同じで、依存症は依存症であると気付くとやめられやすいです。いずれにしろ治療が必要なものです。

 16.12.27加筆
 さて、謗法というのはオハコでわざわざ別書きで警鐘が鳴らされるレベルのかなり困った行為です。ちなみにこの別書きの部分は親鸞の補足で「ついカッとなって言った失言」という扱いになっています。
 末法の場合この謗法が充満することになります。歎異抄というタイトルからもわかる通り、末法の世の者たちはそれに対し悲嘆や憤慨を込めて伝教します。人は本来感情移入の生き物ですからその悲嘆や憤慨のこもった伝教によって末法対策がなされてきました。
 現代においては、これらの過去の対策を、ことごとく、「キモい」「プゲラ」「ビョーキ」と頻繁に発言し全滅させる重度の症状が発症し流行しています。「交流ができない」と言われますが、人の感情が通じないのですから確かに交流できません。人の悲嘆や憤慨といった感情に、人が本来するはずの感情移入できないうえ、その相手を「コミュニケーション障害と言ってしまう障害」の持ち主が多くいます。反抗期の謗法行為が「社会」にレベルアップしているのですから、これは過去の世の者たちが末法対策としてなしてきたことの想定の範囲外となり、彼らが想定していなかった第二末法とでも呼ぶべき状況であり、この症状への対策と治療が追加で必要です。
 

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随並183 第二末法における少数正論差別依存症の発症と流行

多数決・代理権(特権)といったものは時間的な関係です。

 たとえとしては何ですが、某国の某政党の場合、
 5年に一度全国代表大会(n全大会)があり、
 1年に一度その代理代表からなる中央委員会全体会議(n中全会)があり、
 1か月に一度その代理代表からなる中央政治局会議があり、
 1週間に一度その代理代表からなる中央政治局常務委員会があります。
 各代理代表部門は事後でチェックされます。

 日本の場合、だいたいウェストミンタ―ですので、
 国民投票で憲法を制定し、
 その代理代表による国会にて法律を制定し、
 その実質執行部門である内閣にて政令などの閣議決定事項を決定し、
 その代表である首相に緊急時などの首相専権事項があります。
 それぞれ後でチェックされます。

 多数決、代理と言ったものの役割はここまでです。

 過去に述べた通り、各議論の場では、たいていは、自分の方が正しいと思えるところと、先方の方が正しいと思えるところがあります。
 前者はまぁいいとして問題になるのは後者の取り扱いです。
 激高だと負担もなかなかですからこれはそれほど長くはないでしょう。

 問題は負担があるにも関わらず割とズルズルやられやすいものです。
 それが少数(マイノリティー)差別で、たとえば、肌の色がとか、性別が、とかです。
 とはいえこれは最近は表立ってやりにくくなっています。

 その結果、状況はかえって悪化し、差別の対象は、あろうことか「正論を述べられる者」になるという有り様です。
 かつてはあれは「反抗期」との呼び方でした。
 ですが今はそちらが主流となりました。
 このため、「社会」「大人」「コミュニケーション」と言った言葉がことごとく善悪反転状態で用いられています。
 
 もちろん負担状態です。本質は反抗期ですから。
 赤信号もみんなで渡れば怖くない、といった趣旨です。
 ですがそれは赤信号ではなく踏切かもしれません。
 踏切と間違える事例は一部少数、とか、踏切を渡ったけど大丈夫だったという自慢話などがありますが、結局自分が渡っているのが赤信号なのか踏切なのかは自分では気づけないでしょうからその負担からは逃げられません。
 なお間違えて踏切ではねられている事例は頻発中です。
 でわかっているのにやめられていないので、「依存症」状態です。「反抗期」「同調圧力」などでは響きに違和感を覚えます。

 タイトルの症状名が長くなってしまいましたが、長くなればなるほど悪化しているものです。
 もちろん、依存症集団の方々で成りたっている「自称社会」は実は「路地裏の不良」か「泥酔の集団」ですのでなかなかにご迷惑です。
 泥酔状態の者から、交流がとれない、などと言われても、これはこちらの台詞ですし、隔離が要るのはどちらかも考え直しでしょう。
 例えば、パチンコなどは合計で見ると必ずマイナスになるにもかかわらず、一度プラスが出るとそれにつられて続けてしまう心理を狙っているそうですが、概ねこれと同じで、依存症は依存症であると気付くとやめられやすいです。いずれにしろ治療が必要なものです。

 16.12.27加筆
 さて、謗法というのはオハコでわざわざ別書きで警鐘が鳴らされるレベルのかなり困った行為です。ちなみにこの別書きの部分は親鸞の補足で「ついカッとなって言った失言」という扱いになっています。
 末法の場合この謗法が充満することになります。歎異抄というタイトルからもわかる通り、末法の世の者たちはそれに対し悲嘆や憤慨を込めて伝教します。人は本来感情移入の生き物ですからその悲嘆や憤慨のこもった伝教によって末法対策がなされてきました。
 現代においては、これらの過去の対策を、ことごとく、「キモい」「プゲラ」「ビョーキ」と頻繁に発言し全滅させる重度の症状が発症し流行しています。「交流ができない」と言われますが、人の感情が通じないのですから確かに交流できません。人の悲嘆や憤慨といった感情に、人が本来するはずの感情移入できないうえ、その相手を「コミュニケーション障害と言ってしまう障害」の持ち主が多くいます。反抗期の謗法行為が「社会」にレベルアップしているのですから、これは過去の世の者たちが末法対策としてなしてきたことの想定の範囲外となり、彼らが想定していなかった第二末法とでも呼ぶべき状況であり、この症状への対策と治療が追加で必要です。
 

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イラスト投稿&色々と思うことをツラツラ。

 小説は暫し待ちで!(苦笑)
 本来、有料のイラスト添削(ネット受講)をお試しできたので。
 それ用(提出用)に、三日で描いたイラストです。
 詳細はイラストページにも描きました。
「顔のバランスと身体、それからソフトの基本的な操作をマスターすれば、より良くなる」
 ということで、やはり私には基本が必要なのだと思いました。ただ、
「全体的には良い感じ、特に構図が良い」
 とのことで!
 絵の構図なんて褒められたことがない私からすると、大変新鮮でした。
 ネットで絵を公開する様になってから、特に絵を褒められることはなく。
 小説はそうでもないんですけどね。


 ーーー私が唯一、自分の中で報酬を要求できると思う小説を含めた文書を描く技能。
 なんですけど。
 実際これまでの事をよく考えてみると、身内や知り合いからタマに頼まれるのは、ちょっとした絵だったり、ちょっとしたデザイン、ちょっとした声のお仕事で報酬(金銭以外も含む)を貰うことが多い。
 まあ、ぶっちゃけ文章というものは日本語だし、誰にでも描けるもの。
 個人的な意見ですが。上手い下手という境目が恐らく最も解りづらいのは、文章だと思う。


 絵の場合はひたすら独りで描き続けることが続いて、「うーん??」という感じでした。
 けれど、こうして少しでも褒めていただけるのはモチベーションに繋がりますね。
 そういえば、たまに私の描いた絵の構図(ポーズなど)を別角度で描いておられる方がいたり、いなかったり。
 声を大にして、「やめてください」とは言いませんが。
 ご自身にインスピレーションがない事を認めている、と、取られかねないのでオススメはしませんけどねぇ。
「構図の元になった絵を描いた相手や、閲覧者にバレなければいい」という思考をお持ちであれば、それは考えを改め直した方が良いと思います。

 バレていますよ、案外。特に前者の構図の元になった絵を描いた相手には。

 昔から、こういった世界では盗作まがいのことも横行していますからね。
 日本だけでなく、芸術に生きた偉人たちの世界でも。
 賛辞や賞賛が欲しくて、人のアイディアやインスピレーション、作品を盗んでいく。
 ご本人たちに悪気がない場合、大変にタチが悪い。
 私も良く経験しています。

 ただ、本当に相手の作品を全く知らず、どこかがカブってしまうことはあると思います。
 一箇所だけなら、そういうのも許容範囲です、私の場合。
 余りにもカブっている箇所が多いなら、言い逃れは厳しいかもしれませんが。
「うーーん、これって私の絵を見てから描いてる様な?」
 と、感じることが多々あるのも事実。

 相手を蹴落とすのは、受験勉強だけにしてもらえませんかねぇ。
(あと会社で出世のために他者を平気で陥れ蹴落としている方も、いずれ自分が蹴落とされますよ?)

 足元をすくわれる、とも言いますね。

 芸事の世界はスポーツの世界とは違うと思います。
 どんなに活動しても明確に数字化された結果や成果が出るわけでもありません。
 そこを履き違えていると、ただ他者が描く絵と争っているだけになります。
 どんなに他者の描く絵と争っても、他者が描いた構図をアレンジしてご自身で描いても、最初に何もご自身で頭を使って考えてない以上、何の成果があるのでしょう?
 ずっと誰かのインスピレーションやアイディアに乗っかり、ご自身では考えないおつもりですか?

「争う」と、「競う」は別物だと考えます。

 切磋琢磨する、という言葉は個人的に、「競う」方だと思います。
 何故かといえば、「争う」という漢字は、「戦争、紛争」などに用いられます。
「競う」という漢字は、「競技、競走」などに用いるからです。
 まあ、「競争」という熟語もありますけどね。。。
 

 ーー高校生時代。
 勝手にライバル視され(競争心から?)事あるごとに無視された経験もある私からすると、馬鹿らしくて仕方ないです。
 私は、勝手に私をライバル視した子たちが多くの面で遙かに優れていることを知っていました。だから、さして気にも留めなかったんですけどね。
 それが逆に、ダメだったのかもしれませんが^^:
 ライバル視してくる子にはよく、「自分自身と戦え」なんて偉そうなこと言ってました。


 こんなことを言うのも、スポーツや芸事だと最後に戦うのは自分自身、と私は思うからです。
 ただ、どんな業種であろうと余りにも過酷・ブラック会社だったら、大好きな好きな仕事であれ身体や精神を病んでしまう前に退職、もしくは辞めるのが無理なら休職してくださいね。

 体が資本、命あっての物種です。

 一昔前の、普通と言われる人々が生き辛い世の中。
 何とかならないことも多いご時世ですが。
 生き続けないと分からないこともあります。
 もっと自分の五感をガンガン働かせて、様々な情報にアンテナを張り巡らせてみてはどうでしょう。

 探していたものが見つかるかも知れません。

 難病、不慮の事故、何らかの事件に巻き込まれる、大規模な天災などで様々なことで命を落とした方々がいる一方。
 幸いなことに、私のように難を逃れ生きている人々もいます。
 だからこそ、生きている間に色々なことをしたいし、体が不調を訴えてくる様なーー体調が悪化したなどーー仕事場に留まり続ける気もありません。
 どこかしらに迷惑をかけるのは承知ですが、自分の人生と体です。

 どこかで相手に迷惑をかけた分だけ、次は自分がどこかで相手に迷惑をかけられても気にしない、という気持ちで私は生きてます。

 他人の失敗(もしくは自分の失敗)を責め続けても、現状は何も変わりません。
 失敗を素早くフォローした方が効率がいい。
 自分の失敗を自分でフォローするのは難しいかも知れませんが、誰かの失敗をフォローする方がもっと難しかったりします。
 恐らく、すぐに誰かのせいにして他人を責め謝罪もできない様な人々は、誰かのフォローに回れないくらい身も心にも余裕のない人ーー冷たい言い方をすれば、常に自分のことで精一杯、他人をフォローする能力も実力もない人ーーかも知れません。

 そんな人々には、手痛いしっぺ返しが待っていると思い、適当に応対をしましょう。
 真面目に応対しても、馬鹿らしいです(経験済み)。
 ただし、自分から見て一喝できる立場の相手だったら私は何かをハッキリ言います。
 言えない場合は、「(何を言ってんだアンタ?)」という気持ちを込めて睨みます。

 無言の圧力も良いかと思います。

 目上だろうが上司だろうが気に入らない場合は、思わずそうしちゃいますね。
 あんまりにも腹が立った時は、仕事上の先輩にも言うし楯突くタイプなんで。
 だから怖いとか言われるんですけどねぇ。

 私が扱いづらい後輩、部下だと言われたらそうだと思います。否定しません。
 私の中にある幾つかの基準と照らし合わせて、それを余りにも超えたり逸脱した場合。
 ハッキリ言ったり、睨んだり、無言の圧力をかけます。
 そうすることで、どう考えても変なのにまかり通ってきた会社のルールや、上司だけが許される様なルールに物申してきました。

 変わることもあれば、変わらないこともありますけどね。
 声を上げる、行動に移さないとダメなこともありますから。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー


 関係ないことを描きすぎました^^;
 メリークリスマス!
 良いお年を!

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随並加筆

随並;小随筆154 労働安定九原則http://blogs.yahoo.co.jp/t_finepc/folder/1905430.html#70862050

まとめに第二段落目を追加しました

> かつては企業には自浄能力があったため、学歴とは智徳であり、それを積んだものが安定した雇用の現場で智徳のある行いをすることが普通であり、この状態が一億総中流を作り出していました。
勝ち組負け組の概念はすぐに一億総負け組の状態を生みだしました。もはや安定している企業であるにもかかわらず自浄能力がなく、これよりは関係機関による介入が当然の状態となります。
合理性のある淘汰であれば受け入れられるでしょうが、それに不正を感じたのであれば、それについて市民が市民権を行使することは、地域市民社会のみならず、それによってのみ成り立っている法人にとっても実は喜びとなります。中には冷笑や少数差別などで誤魔化そうとする者もいるでしょうがそういう者はかえって苦しむだけでしょう。自分の利益ではなく、ただ地域市民社会から愛されることをすればいいのでしょう。自身の合理的な淘汰を含めて。

随並;小随筆169 指揮者十留意http://blogs.yahoo.co.jp/t_finepc/70898289.html#70898289

6加筆しました

>労使関係しか目にいっていない者が多くいるようですが、従業員の収益によって利用客が従業員となっている場所が潤い、その利用客がこちらを利用しているのですから、即ち、従業員は利用客であり、利用客は従業員といえるでしょう。

随並 小随筆172 神道、仏教、キリスト教、共産主義、儒教、計五教のプラスマイナス・五教習合
http://blogs.yahoo.co.jp/t_finepc/70901076.html#70901076

作用 を 教復 に修正しました


引き続きコメントをお待ちしています^^

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随並 小随筆172 神道、仏教、キリスト教、共産主義、儒教、計五教のプラスマ…

・ 神道

 教義は明確でないとされていますが古事記などを重視しているようです。古事記は本居宣長が解釈しないと解読不能でした。本居の思想であるもののあはれなどが重要でしょう。これは仏教の教義にほぼ一致します。また、現実的理想主義の観点から見て現状社会政策としての歩幅の提唱にはもっとも定評がありそうです。また多神教であるもののその信仰の対象は、空間や時間に対する畏敬に結びつくものが多いようです。
 欠点は、関西などでは神仏霊場会の発足など、仏教との再連携の試みもあるものの、とくに神仏分離以降、宗教融和の視点を欠きやすい、あるいは、正道などの実践を重視しているがために内面の方が疎かになったり、地域によっては俗信と結びつき、祟り他の概念が発生してしまっている、などでしょうか。また、日本の王道は、他国の王や形式的な元首と異なり数千年水準のものであり、この維持には、王の欠点、を暗黙のうちに理解しておく必要がありますが、昨今は他国の王水準でしかないものを過剰に求めがちな傾向もありそうです。

・ 仏教

 教義上は宗教としては相当優れているようです。四苦の解放という、内面からスタートしており、正道はその中身という扱いです。極端にいえば、正道から外れているような行為であっても、仮にそれが本当に楽しく、四苦から解放されるのであれば、正道の中身を書き変えてもいいということです。「善良」を説くだけでなくそれが「安楽」と関係しているということでもあります。
 誤解の発生が多く時代とともにとくに日本でも追加改良がなされています。真宗は悪人正機を説きます。また禅宗は、公案という、ここに来た者で仏教に触れていなければ誰でも直面する案件についての考察を重視します。
 但し相変わらずそれぞれ誤解が多く、昨今の場合、真宗は、慈愛は説くものの、最終的には自分が優先という、菩薩でしかない地蔵であったり、禅宗の場合、公案についての考察が重要なのであって座禅とは単に「楽な姿勢」程度の意味合いしかなかったもののはずが、かっこよく座ることが目的になったりしています。蓮如と一休とは親交が深かったそうですが、蓮如の場合真宗に多い内面の誤解を解くために御文という理論での伝教を重視しました。一方一休の場合は禅宗に多い外見の誤解を解くために行動での伝教を重視する傾向があったといえそうです。とくに神仏分離以降は神道とのわだかまりもあってか社会政策の提言内容もあまり優れておらず、神社のウェブなど、神道サイドでは仏教の教義からの引用がよくなされるのに対し、その逆があまりありません。

・ キリスト教

 浄土教に近い内容です。原罪等内面重視でもあります。但し神が弥勒菩薩レベルで、浄土だと時間も停止してしまうという視点が抜けていたりします。それよりもキリスト教圏においてこれを土台として誕生した各思想、とくに功利主義、実存主義系は仏教に近い部分があります。
 海外のキリスト教は、他に何もないのですから日本の神道などへの理解がかえって強かったりします。一方国内のキリスト教の方がかえって宗教融和の視点を欠いていたりするようです。

・ 共産主義

 殆どキリスト教と同じようなもので、なんで対立しているのかがわからない、というレベルです。社会政策と一体化することが多いのですが、教義的には、私有財産の否定よりも、個々の私有財産を強化する、という解釈に移行した、日本や改革開放以降の中国の方が進化しているようです。
 とはいえ科学的社会主義、現実的理想主義を掲げていながら、提唱する一段が急進的であったり(例えば犯罪者がいなくなれば警察はいらない、レベルのことを言っており、それは心の隅で忘れてはいけないこととして提唱すること自体は重要であるものの、今やるとかえって個人の人権や国家の主権の保全が損なわれます)またその分見落としが多かったり、あるいは単に少数意見を紹介することに目的が変わっていたりします。

・ 儒教

 近代以降どこかにいってしまったのですが、日本の京都堀川学派の仁愛、近江の日本陽明学の致良知などの追加改良は、それぞれ仏教の慈悲、一切衆生悉有仏性などに近いものがありそうです。ただし神道同様内面への配慮に弱みがあります。



 さてとはいえこれらが意味するものは全て同じようなものです。つまりこの五教は習合が可能です。
 これらがまとめて、むしろ逆に、マイノリティーとして、自己の強引な正当化のために迫害されているような状況が発生し、この五つのうちのどれか一つどころか、全てが相容れないような退廃が横行しており、危険な状態にありそうです。
 この五教を束ねることはもちろん今後必要となってきますが、一方で、これらのうちのどれか一つまたは複数についての理解促進も必要です。そしてそれは一人ひとりの意思に委ねられています。

 神道は伊勢、キリスト教は長崎などを拠点としていますが、これらを比較、検討、習合できるような地域というと限られてきそうです。堀川下立売、堀川学派伊藤仁斎の儒教は古義と言っているものの神仏儒を事前に比較しており儒教から大幅に飛躍しているようにも見られます。
 御池車屋町、石田梅岩の石門心学にいたっては最初から神仏儒を全部混ぜたことを前面に出しています。日常生活の中での実践を重視している辺りで、反日なはずの周辺国からも注目されているようです。石門は士農工商それぞれの役割を説きその意義に大差はないと言おうとしたはずですが、その過程でランクがたまたま一番下であった商の重視に時間を割いた結果、どういうわけかというかやはりというか、現代ではこれが、商人の利己的行為の正当化という誤解を生んでいるようです。
 西田幾多郎の場合も時局の関係上東洋重視というスタンスではありますが結局のところ中身は実存主義とあまり変わらない印象です。
 梅原猛は平然と歎異抄から聖書を連想しているようです。

 で、放置していたら、葬儀代に数百万をかけ、教会比率がワースト1or2で、トランプタワーが乱立しているようなところの発想が、webの発達した現代に大規模拡散中で、これに既存が未対応の状態にあり、再度まとめて束ねる必要が出てきたのでは、といったところです。これらの五教をとるのか名古屋・韓国をとるのかの二者択一が今迫られています。

 随並は百五十四、百六十九、百七十二と数字が続くタイトルのものが続きました。それぞれ九原則、十留意、五教ですね。合わせると二十四となりますので仮にこれらを二十四則と呼ぶとしましょう。
 及ばずながら、これらが教示するものが、一億総負け組社会である現状を、再び一億総中流に反転するため、地域市民社会にとって良い方に作用されることを希望します。

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お知らせ トップ加筆

12 作家はその豊富な職能その他の事由により他の職業との兼業であることもあります。また最近ではwebの発達により誰でも数千字級の文章を発表することが可能となりました。これらの執筆は健康で文化的な最低限度の権利ですので、兼業先にてその権利を保全することは地域及びその兼業先にとっても喜ばしいことです。専業・兼業と、これらの執筆の分量とはほぼ一切無関係であることを確認します。

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(※16.11.24八留意の改筆です) 随並 小随筆169 指揮者十留意

一億総中流が、男女共同参画により雇用拡大となったとたん勝ち組負け組となり、それはすぐに、私の予想した通り、東大卒のエリートが、収益の安定している大企業電通において不法過労を苦に自殺という、一億総負け組の時代になりました。ここで、その象徴ともいうべき電通が、そのモラル破壊の集大成ともいうべき鬼十則を規定し、鬼という本来悪質なものをどういうわけか讃える風潮を生みだしていたことに合わせ、指揮者八留意を提唱したいと思います。これらは今まさに必要なものと言えるでしょう。勿論私もまだまだなのですが…。

1、国民による直接民主制では機動性に問題が出ますので、憲法改正などの重要事項でない、法律などの簡易な事項については代議士を選出し議会を組織して制定します。さらに機動性を必要とする簡易な事項については、議院内閣制においては議会の代理代表である内閣が政令を制定します。さらに機動性を必要とする簡易な事項については内閣の代表である首相の専権事項となります。
 このことからもわかる通り、少数なほど決められる事項が限られてきます。そして彼らは代理代表であり、一歩外に出れば同じ地域住民です。そして専権事項が各々限定されていることからもわかる通り、指揮者とは当該業務指示を出す権限しかありません。首相が住民を私的な晩酌に誘ったからと言って従う義務はありません。

2、指揮権には責任が伴います。その責任を回避することはできませんが、それを緩和する方法があります。昨今は「大きな声を使い反論に耳を貸さない」、「偽りのコミュ力」を賛美する傾向がありますが、ここに必要なのは、「配慮から声を小さくし、また小さな声にも耳を傾け、先方の方が正論と感じた場合に自論を撤回する」、「本当のコミュ力」です。より優れた声を多く上げる者があればすぐにでも指揮権を譲ることが求められます。正論と感じていながら支配欲を優先させてしまった場合、無理やりの自己正当化の手段として、マイノリティー差別の心理に陥ることがあります。とりわけ昨今は、少々文明が進んだからといって、「××は悲しんではいけない」「○○は自責をしてはいけない」など、自然科学や倫理を無視した風潮が目立ち、これらがマイノリティーとなっていることで、有史以来の倫理の危機が発生しているといえます。「××はひきこもり」といい自らは「広い世界」にいる、という「最大のひきこもり」が問題です。「コミュ二ケーション」、「大人」、「意識」、「社会」といった本来は大切な言葉が汚れた意味で用いられ謗法が充満しておりその修復が今後求められます。

3、法人による不正は論外の域です。但し現代は過去とは異なり監督者に当たる者が監督者足りえず法人が全員マフィア状態となっており、とくに2のような者は悪智恵ばかりを働かせていることも珍しくありませんので、今後は、刑事である監督署及び民事である労働審判の介入を当たり前とするのが適切でしょう。現状これは複雑な状態となっており改善が求められますが、事案に応じてどちらが適切かというフローチャートの例は163にて提示しています。

4、業務知識とは、あなたの家から駅までの行き方のようなものに等しいです。即戦力、自分で考える、などの美辞麗句が悪用される傾向があります。道案内を怠ってはいけません。オタクであっても近鉄に詳しい者は東武に疎く、東武に詳しい者は近鉄に疎いでしょうが、こういったことを言う者はあらゆることに疎い醜いイケメンです。

5、人的過失は誰にでも発生するものであり、科学的見地からの解決法を探ることが適切です。人により、それに当たる者と箇所には個人差が発生します。削減の目的として複数による確認があり、指揮者の役目は、それをゼロにすることではなく、その確認者の一人となることです。また、人的過失は人により、同じ箇所で同じことをやるという傾向があります。2度あることは10度ある、程度の感覚で臨むのが妥当です。

6、時間的都合により急ぐほど相手への配慮が欠けます。配慮不足により相手が憤ったり落ち込んだりした場合、責は配慮を欠いた側です。基本的相互人権への努力を仲良しごっこといってあざ笑い、その都合を逆手にとって不必要に煽る「スポーツごっこ」の風潮が、地域社会の代理である労働の現場で発生することを防がなければなりません。

7、日本の野党のように、AをしているときにはBをいい、BをしているときにAをいいだすともはや指揮者としての資質に関わってくるのではないでしょうか。

8、たいていのことは、「原則事前承認、緊急時事後承認」です。緊急か否かを最初に判断する権利自体は当事者が持っています。指揮者にはその判断が適切であったか否かを検証し、また、事後承認をしないという権利があります。但したいていはここまでで、緊急時においても全て事前承認とするのが適切なことというのはあまりないでしょう。

9、「あなたは××だ」といった総論ばかりで、では具体的にどのような一段が登れるのかを具体的に提示しない指揮者はその水準でしかない指揮者でしょう。

10、2のように基本的人権の維持に努める意思がない者がいる場合、相手が指揮者であっても3のように法的措置は今後当たり前となってきます。なお公的機関の遅れや不存在などによる個別・集団的自衛権も個人国家を問わず基本的人権のひとつです。遺憾なことではありますが、基本的人権の防衛の範囲であればその発動によって人権を侵害した側に発生する被害の責任は大小を問わず人権を侵害した本人の側にしかありません。

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随並 小随筆172 神道、仏教、キリスト教、共産主義、儒教、計五教のプラスマ…

・ 神道

 教義は明確でないとされていますが古事記などを重視しているようです。古事記は本居宣長が解釈しないと解読不能でした。本居の思想であるもののあはれなどが重要でしょう。これは仏教の教義にほぼ一致します。また、現実的理想主義の観点から見て現状社会政策としての歩幅の提唱にはもっとも定評がありそうです。また多神教であるもののその信仰の対象は、空間や時間に対する畏敬に結びつくものが多いようです。
 欠点は、関西などでは神仏霊場会の発足など、仏教との再連携の試みもあるものの、とくに神仏分離以降、宗教融和の視点を欠きやすい、あるいは、正道などの実践を重視しているがために内面の方が疎かになったり、地域によっては俗信と結びつき、祟り他の概念が発生してしまっている、などでしょうか。また、日本の王道は、他国の王や形式的な元首と異なり数千年水準のものであり、この維持には、王の欠点、を暗黙のうちに理解しておく必要がありますが、昨今は他国の王水準でしかないものを過剰に求めがちな傾向もありそうです。

・ 仏教

 教義上は宗教としては相当優れているようです。四苦の解放という、内面からスタートしており、正道はその中身という扱いです。極端にいえば、正道から外れているような行為であっても、仮にそれが本当に楽しく、四苦から解放されるのであれば、正道の中身を書き変えてもいいということです。「善良」を説くだけでなくそれが「安楽」と関係しているということでもあります。
 誤解の発生が多く時代とともにとくに日本でも追加改良がなされています。真宗は悪人正機を説きます。また禅宗は、公案という、ここに来た者で仏教に触れていなければ誰でも直面する案件についての考察を重視します。
 但し相変わらずそれぞれ誤解が多く、昨今の場合、真宗は、慈愛は説くものの、最終的には自分が優先という、菩薩でしかない地蔵であったり、禅宗の場合、公案についての考察が重要なのであって座禅とは単に「楽な姿勢」程度の意味合いしかなかったもののはずが、かっこよく座ることが目的になったりしています。蓮如と一休とは親交が深かったそうですが、蓮如の場合真宗に多い内面の誤解を解くために御文という理論での伝教を重視しました。一方一休の場合は禅宗に多い外見の誤解を解くために行動での伝教を重視する傾向があったといえそうです。とくに神仏分離以降は神道とのわだかまりもあってか社会政策の提言内容もあまり優れておらず、神社のウェブなど、神道サイドでは仏教の教義からの引用がよくなされるのに対し、その逆があまりありません。

・ キリスト教

 浄土教に近い内容です。原罪等内面重視でもあります。但し神が弥勒菩薩レベルで、浄土だと時間も停止してしまうという視点が抜けていたりします。それよりもキリスト教圏においてこれを土台として誕生した各思想、とくに功利主義、実存主義系は仏教に近い部分があります。
 海外のキリスト教は、他に何もないのですから日本の神道などへの理解がかえって強かったりします。一方国内のキリスト教の方がかえって宗教融和の視点を欠いていたりするようです。

・ 共産主義

 殆どキリスト教と同じようなもので、なんで対立しているのかがわからない、というレベルです。社会政策と一体化することが多いのですが、教義的には、私有財産の否定よりも、個々の私有財産を強化する、という解釈に移行した、日本や改革開放以降の中国の方が進化しているようです。
 とはいえ科学的社会主義、現実的理想主義を掲げていながら、提唱する一段が急進的であったり(例えば犯罪者がいなくなれば警察はいらない、レベルのことを言っており、それは心の隅で忘れてはいけないこととして提唱すること自体は重要であるものの、今やるとかえって個人の人権や国家の主権の保全が損なわれます)またその分見落としが多かったり、あるいは単に少数意見を紹介することに目的が変わっていたりします。

・ 儒教

 近代以降どこかにいってしまったのですが、日本の京都堀川学派の仁愛、近江の日本陽明学の致良知などの追加改良は、それぞれ仏教の慈悲、一切衆生悉有仏性などに近いものがありそうです。ただし神道同様内面への配慮に弱みがあります。



 さてとはいえこれらが意味するものは全て同じようなものです。つまりこの五教は習合が可能です。
 これらがまとめて、むしろ逆に、マイノリティーとして、自己の強引な正当化のために迫害されているような状況が発生し、この五つのうちのどれか一つどころか、全てが相容れないような退廃が横行しており、危険な状態にありそうです。
 この五教を束ねることはもちろん今後必要となってきますが、一方で、これらのうちのどれか一つまたは複数についての理解促進も必要です。そしてそれは一人ひとりの意思に委ねられています。

 神道は伊勢、キリスト教は長崎などを拠点としていますが、これらを比較、検討、習合できるような地域というと限られてきそうです。堀川下立売、堀川学派伊藤仁斎の儒教は古義と言っているものの神仏儒を事前に比較しており儒教から大幅に飛躍しているようにも見られます。
 御池車屋町、石田梅岩の石門心学にいたっては最初から神仏儒を全部混ぜたことを前面に出しています。日常生活の中での実践を重視している辺りで、反日なはずの周辺国からも注目されているようです。石門は士農工商それぞれの役割を説きその意義に大差はないと言おうとしたはずですが、その過程でランクがたまたま一番下であった商の重視に時間を割いた結果、どういうわけかというかやはりというか、現代ではこれが、商人の利己的行為の正当化という誤解を生んでいるようです。
 西田幾多郎の場合も時局の関係上東洋重視というスタンスではありますが結局のところ中身は実存主義とあまり変わらない印象です。
 梅原猛は平然と歎異抄から聖書を連想しているようです。

 で、放置していたら、葬儀代に数百万をかけ、教会比率がワースト1or2で、トランプタワーが乱立しているようなところの発想が、webの発達した現代に大規模拡散中で、これに既存が未対応の状態にあり、再度まとめて束ねる必要が出てきたのでは、といったところです。これらの五教をとるのか名古屋・韓国をとるのかの二者択一が今迫られています。

 随並は百五十四、百六十九、百七十二と数字が続くタイトルのものが続きました。それぞれ九原則、十留意、五教ですね。合わせると二十四となりますので仮にこれらを二十四則と呼ぶとしましょう。
 及ばずながら、これらが教示するものが、一億総負け組社会である現状を、再び一億総中流に反転するため、地域市民社会にとって良い方に作用されることを希望します。

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坪内琢正 left a comment!

随並 小随筆172 神道、仏教、キリスト教、共産主義、儒教、計五教のプラスマ…

・ 神道

 教義は明確でないとされていますが古事記などを重視しているようです。古事記は本居宣長が解釈しないと解読不能でした。本居の思想であるもののあはれなどが重要でしょう。これは仏教の教義にほぼ一致します。また、現実的理想主義の観点から見て現状社会政策としての歩幅の提唱にはもっとも定評がありそうです。また多神教であるもののその信仰の対象は、空間や時間に対する畏敬に結びつくものが多いようです。
 欠点は、関西などでは神仏霊場会の発足など、仏教との再連携の試みもあるものの、とくに神仏分離以降、宗教融和の視点を欠きやすい、あるいは、正道などの実践を重視しているがために内面の方が疎かになったり、地域によっては俗信と結びつき、祟り他の概念が発生してしまっている、などでしょうか。また、日本の王道は、他国の王や形式的な元首と異なり数千年水準のものであり、この維持には、王の欠点、を暗黙のうちに理解しておく必要がありますが、昨今は他国の王水準でしかないものを過剰に求めがちな傾向もありそうです。

・ 仏教

 教義上は宗教としては相当優れているようです。四苦の解放という、内面からスタートしており、正道はその中身という扱いです。極端にいえば、正道から外れているような行為であっても、仮にそれが本当に楽しく、四苦から解放されるのであれば、正道の中身を書き変えてもいいということです。「善良」を説くだけでなくそれが「安楽」と関係しているということでもあります。
 誤解の発生が多く時代とともにとくに日本でも追加改良がなされています。真宗は悪人正機を説きます。また禅宗は、公案という、ここに来た者で仏教に触れていなければ誰でも直面する案件についての考察を重視します。
 但し相変わらずそれぞれ誤解が多く、昨今の場合、真宗は、慈愛は説くものの、最終的には自分が優先という、菩薩でしかない地蔵であったり、禅宗の場合、公案についての考察が重要なのであって座禅とは単に「楽な姿勢」程度の意味合いしかなかったもののはずが、かっこよく座ることが目的になったりしています。蓮如と一休とは親交が深かったそうですが、蓮如の場合真宗に多い内面の誤解を解くために御文という理論での伝教を重視しました。一方一休の場合は禅宗に多い外見の誤解を解くために行動での伝教を重視する傾向があったといえそうです。とくに神仏分離以降は神道とのわだかまりもあってか社会政策の提言内容もあまり優れておらず、神社のウェブなど、神道サイドでは仏教の教義からの引用がよくなされるのに対し、その逆があまりありません。

・ キリスト教

 浄土教に近い内容です。原罪等内面重視でもあります。但し神が弥勒菩薩レベルで、浄土だと時間も停止してしまうという視点が抜けていたりします。それよりもキリスト教圏においてこれを土台として誕生した各思想、とくに功利主義、実存主義系は仏教に近い部分があります。
 海外のキリスト教は、他に何もないのですから日本の神道などへの理解がかえって強かったりします。一方国内のキリスト教の方がかえって宗教融和の視点を欠いていたりするようです。

・ 共産主義

 殆どキリスト教と同じようなもので、なんで対立しているのかがわからない、というレベルです。社会政策と一体化することが多いのですが、教義的には、私有財産の否定よりも、個々の私有財産を強化する、という解釈に移行した、日本や改革開放以降の中国の方が進化しているようです。
 とはいえ科学的社会主義、現実的理想主義を掲げていながら、提唱する一段が急進的であったり(例えば犯罪者がいなくなれば警察はいらない、レベルのことを言っており、それは心の隅で忘れてはいけないこととして提唱すること自体は重要であるものの、今やるとかえって個人の人権や国家の主権の保全が損なわれます)またその分見落としが多かったり、あるいは単に少数意見を紹介することに目的が変わっていたりします。

・ 儒教

 近代以降どこかにいってしまったのですが、日本の京都堀川学派の仁愛、近江の日本陽明学の致良知などの追加改良は、それぞれ仏教の慈悲、一切衆生悉有仏性などに近いものがありそうです。ただし神道同様内面への配慮に弱みがあります。



 さてとはいえこれらが意味するものは全て同じようなものです。つまりこの五教は習合が可能です。
 これらがまとめて、むしろ逆に、マイノリティーとして、自己の強引な正当化のために迫害されているような状況が発生し、この五つのうちのどれか一つどころか、全てが相容れないような退廃が横行しており、危険な状態にありそうです。
 この五教を束ねることはもちろん今後必要となってきますが、一方で、これらのうちのどれか一つまたは複数についての理解促進も必要です。そしてそれは一人ひとりの意思に委ねられています。

 神道は伊勢、キリスト教は長崎などを拠点としていますが、これらを比較、検討、習合できるような地域というと限られてきそうです。堀川下立売、堀川学派伊藤仁斎の儒教は古義と言っているものの神仏儒を事前に比較しており儒教から大幅に飛躍しているようにも見られます。
 御池車屋町、石田梅岩の石門心学にいたっては最初から神仏儒を全部混ぜたことを前面に出しています。日常生活の中での実践を重視している辺りで、反日なはずの周辺国からも注目されているようです。石門は士農工商それぞれの役割を説きその意義に大差はないと言おうとしたはずですが、その過程でランクがたまたま一番下であった商の重視に時間を割いた結果、どういうわけかというかやはりというか、現代ではこれが、商人の利己的行為の正当化という誤解を生んでいるようです。
 西田幾多郎の場合も時局の関係上東洋重視というスタンスではありますが結局のところ中身は実存主義とあまり変わらない印象です。
 梅原猛は平然と歎異抄から聖書を連想しているようです。

 で、放置していたら、葬儀代に数百万をかけ、教会比率がワースト1or2で、トランプタワーが乱立しているようなところの発想が、webの発達した現代に大規模拡散中で、これに既存が未対応の状態にあり、再度まとめて束ねる必要が出てきたのでは、といったところです。これらの五教をとるのか名古屋・韓国をとるのかの二者択一が今迫られています。

 随並は百五十四、百六十九、百七十二と数字が続くタイトルのものが続きました。それぞれ九原則、十留意、五教ですね。合わせると二十四となりますので仮にこれらを二十四則と呼ぶとしましょう。
 及ばずながら、これらが教示するものが、一億総負け組社会である現状を、再び一億総中流に反転するため、地域市民社会にとって良い方に作用されることを希望します。

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随並 小随筆172 神道、仏教、キリスト教、共産主義、儒教、計五教のプラスマ…

・ 神道

 教義は明確でないとされていますが古事記などを重視しているようです。古事記は本居宣長が解釈しないと解読不能でした。本居の思想であるもののあはれなどが重要でしょう。これは仏教の教義にほぼ一致します。また、現実的理想主義の観点から見て現状社会政策としての歩幅の提唱にはもっとも定評がありそうです。また多神教であるもののその信仰の対象は、空間や時間に対する畏敬に結びつくものが多いようです。
 欠点は、関西などでは神仏霊場会の発足など、仏教との再連携の試みもあるものの、とくに神仏分離以降、宗教融和の視点を欠きやすい、あるいは、正道などの実践を重視しているがために内面の方が疎かになったり、地域によっては俗信と結びつき、祟り他の概念が発生してしまっている、などでしょうか。また、日本の王道は、他国の王や形式的な元首と異なり数千年水準のものであり、この維持には、王の欠点、を暗黙のうちに理解しておく必要がありますが、昨今は他国の王水準でしかないものを過剰に求めがちな傾向もありそうです。

・ 仏教

 教義上は宗教としては相当優れているようです。四苦の解放という、内面からスタートしており、正道はその中身という扱いです。極端にいえば、正道から外れているような行為であっても、仮にそれが本当に楽しく、四苦から解放されるのであれば、正道の中身を書き変えてもいいということです。「善良」を説くだけでなくそれが「安楽」と関係しているということでもあります。
 誤解の発生が多く時代とともにとくに日本でも追加改良がなされています。真宗は悪人正機を説きます。また禅宗は、公案という、ここに来た者で仏教に触れていなければ誰でも直面する案件についての考察を重視します。
 但し相変わらずそれぞれ誤解が多く、昨今の場合、真宗は、慈愛は説くものの、最終的には自分が優先という、菩薩でしかない地蔵であったり、禅宗の場合、公案についての考察が重要なのであって座禅とは単に「楽な姿勢」程度の意味合いしかなかったもののはずが、かっこよく座ることが目的になったりしています。蓮如と一休とは親交が深かったそうですが、蓮如の場合真宗に多い内面の誤解を解くために御文という理論での伝教を重視しました。一方一休の場合は禅宗に多い外見の誤解を解くために行動での伝教を重視する傾向があったといえそうです。とくに神仏分離以降は神道とのわだかまりもあってか社会政策の提言内容もあまり優れておらず、神社のウェブなど、神道サイドでは仏教の教義からの引用がよくなされるのに対し、その逆があまりありません。

・ キリスト教

 浄土教に近い内容です。原罪等内面重視でもあります。但し神が弥勒菩薩レベルで、浄土だと時間も停止してしまうという視点が抜けていたりします。それよりもキリスト教圏においてこれを土台として誕生した各思想、とくに功利主義、実存主義系は仏教に近い部分があります。
 海外のキリスト教は、他に何もないのですから日本の神道などへの理解がかえって強かったりします。一方国内のキリスト教の方がかえって宗教融和の視点を欠いていたりするようです。

・ 共産主義

 殆どキリスト教と同じようなもので、なんで対立しているのかがわからない、というレベルです。社会政策と一体化することが多いのですが、教義的には、私有財産の否定よりも、個々の私有財産を強化する、という解釈に移行した、日本や改革開放以降の中国の方が進化しているようです。
 とはいえ科学的社会主義、現実的理想主義を掲げていながら、提唱する一段が急進的であったり(例えば犯罪者がいなくなれば警察はいらない、レベルのことを言っており、それは心の隅で忘れてはいけないこととして提唱すること自体は重要であるものの、今やるとかえって個人の人権や国家の主権の保全が損なわれます)またその分見落としが多かったり、あるいは単に少数意見を紹介することに目的が変わっていたりします。

・ 儒教

 近代以降どこかにいってしまったのですが、日本の京都堀川学派の仁愛、近江の日本陽明学の致良知などの追加改良は、それぞれ仏教の慈悲、一切衆生悉有仏性などに近いものがありそうです。ただし神道同様内面への配慮に弱みがあります。



 さてとはいえこれらが意味するものは全て同じようなものです。つまりこの五教は習合が可能です。
 これらがまとめて、むしろ逆に、マイノリティーとして、自己の強引な正当化のために迫害されているような状況が発生し、この五つのうちのどれか一つどころか、全てが相容れないような退廃が横行しており、危険な状態にありそうです。
 この五教を束ねることはもちろん今後必要となってきますが、一方で、これらのうちのどれか一つまたは複数についての理解促進も必要です。そしてそれは一人ひとりの意思に委ねられています。

 神道は伊勢、キリスト教は長崎などを拠点としていますが、これらを比較、検討、習合できるような地域というと限られてきそうです。堀川下立売、堀川学派伊藤仁斎の儒教は古義と言っているものの神仏儒を事前に比較しており儒教から大幅に飛躍しているようにも見られます。
 御池車屋町、石田梅岩の石門心学にいたっては最初から神仏儒を全部混ぜたことを前面に出しています。日常生活の中での実践を重視している辺りで、反日なはずの周辺国からも注目されているようです。石門は士農工商それぞれの役割を説きその意義に大差はないと言おうとしたはずですが、その過程でランクがたまたま一番下であった商の重視に時間を割いた結果、どういうわけかというかやはりというか、現代ではこれが、商人の利己的行為の正当化という誤解を生んでいるようです。
 西田幾多郎の場合も時局の関係上東洋重視というスタンスではありますが結局のところ中身は実存主義とあまり変わらない印象です。
 梅原猛は平然と歎異抄から聖書を連想しているようです。

 で、放置していたら、葬儀代に数百万をかけ、教会比率がワースト1or2で、トランプタワーが乱立しているようなところの発想が、webの発達した現代に大規模拡散中で、これに既存が未対応の状態にあり、再度まとめて束ねる必要が出てきたのでは、といったところです。これらの五教をとるのか名古屋・韓国をとるのかの二者択一が今迫られています。

 随並は百五十四、百六十九、百七十二と数字が続くタイトルのものが続きました。それぞれ九原則、十留意、五教ですね。合わせると二十四となりますので仮にこれらを二十四則と呼ぶとしましょう。
 及ばずながら、これらが教示するものが、一億総負け組社会である現状を、再び一億総中流に反転するため、地域市民社会にとって良い方に作用されることを希望します。

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随並 小随筆169 指揮者八留意

 一億総中流が、男女共同参画により雇用拡大となったとたん勝ち組負け組となり、それはすぐに、私の予想した通り、東大卒のエリートが、収益の安定している大企業電通において不法過労を苦に自殺という、一億総負け組の時代になりました。ここで、その象徴ともいうべき電通が、そのモラル破壊の集大成ともいうべき鬼十則を規定し、鬼という本来悪質なものをどういうわけか讃える風潮を生みだしていたことに合わせ、指揮者八留意を提唱したいと思います。勿論私もまだまだなのですが…。

1、国民による直接民主制では機動性に問題が出ますので、憲法改正などの重要事項でない、法律などの簡易な事項については代議士を選出し議会を組織して制定します。さらに機動性を必要とする簡易な事項については、議院内閣制においては議会の代理代表である内閣が政令を制定します。さらに機動性を必要とする簡易な事項については内閣の代表である首相の専権事項となります。
 このことからもわかる通り、少数なほど決められる事項が限られてきます。そして彼らは代理代表であり、一歩外に出れば同じ地域住民です。そして専権事項が各々限定されていることからもわかる通り、指揮者とは当該業務指示を出す権限しかありません。首相が住民を私的な晩酌に誘ったからと言って従う義務はありません。

2、指揮権には責任が伴います。その責任を回避することはできませんが、それを緩和する方法があります。昨今は「大きな声を使い反論に耳を貸さない」、「偽りのコミュ力」を賛美する傾向がありますが、ここに必要なのは、「配慮から声を小さくし、また小さな声にも耳を傾け、先方の方が正論と感じた場合に自論を撤回する」、「本当のコミュ力」です。より優れた声を多く上げる者があればすぐにでも指揮権を譲ることが求められます。正論と感じていながら支配欲を優先させてしまった場合、無理やりの自己正当化の手段として、マイノリティー差別の心理に陥ることがあります。とりわけ昨今は、少々文明が進んだからといって、「××は悲しんではいけない」「○○は自責をしてはいけない」など、自然科学や倫理を無視した風潮が目立ち、これらがマイノリティーとなっていることで、有史以来の倫理の危機が発生しているといえます。

3、法人による不正は論外の域です。但し現代は過去とは異なり監督者に当たる者が監督者足りえず法人が全員マフィア状態となっており、とくに2のような者は悪智恵ばかりを働かせていることも珍しくありませんので、今後は、刑事である監督署及び民事である労働審判の介入を当たり前とするのが適切でしょう。現状これは複雑な状態となっており改善が求められますが、事案に応じてどちらが適切かというフローチャートの例は163にて提示しています。

4、業務知識とは、あなたの家から駅までの行き方のようなものに等しいです。即戦力、自分で考える、などの美辞麗句が悪用される傾向があります。道案内を怠ってはいけません。オタクであっても近鉄に詳しい者は東武に疎く、東武に詳しい者は近鉄に疎いでしょうが、こういったことを言う者はあらゆることに疎い醜いイケメンです。

5、人的過失は誰にでも発生するものであり、科学的見地からの解決法を探ることが適切です。人により、それに当たる者と箇所には個人差が発生します。削減の目的として複数による確認があり、指揮者の役目は、それをゼロにすることではなく、その確認者の一人となることです。また、人的過失は人により、同じ箇所で同じことをやるという傾向があります。2度あることは10度ある、程度の感覚で臨むのが妥当です。

6、時間的都合により急ぐほど相手への配慮が欠けます。配慮不足により相手が憤ったり落ち込んだりした場合、責は配慮を欠いた側です。基本的相互人権への努力を仲良しごっこといってあざ笑い、その都合を逆手にとって不必要に煽る「スポーツごっこ」の風潮が、地域社会の代理である労働の現場で発生することを防がなければなりません。

7、日本の野党のように、AをしているときにはBをいい、BをしているときにAをいいだすともはや指揮者としての資質に関わってくるのではないでしょうか。

8、たいていのことは、「原則事前承認、緊急時事後承認」です。緊急か否かを最初に判断する権利自体は当事者が持っています。指揮者にはその判断が適切であったか否かを検証し、また、事後承認をしないという権利があります。但したいていはここまでで、緊急時においても全て事前承認とするのが適切なことというのはあまりないでしょう。

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随並 小随筆172 神道、仏教、キリスト教、共産主義、儒教、計五教のプラスマ…

・ 神道

 教義は明確でないとされていますが古事記などを重視しているようです。古事記は本居宣長が解釈しないと解読不能でした。本居の思想であるもののあはれなどが重要でしょう。これは仏教の教義にほぼ一致します。また、現実的理想主義の観点から見て現状社会政策としての歩幅の提唱にはもっとも定評がありそうです。また多神教であるもののその信仰の対象は、空間や時間に対する畏敬に結びつくものが多いようです。
 欠点は、関西などでは神仏霊場会の発足など、仏教との再連携の試みもあるものの、とくに神仏分離以降、宗教融和の視点を欠きやすい、あるいは、正道などの実践を重視しているがために内面の方が疎かになったり、地域によっては俗信と結びつき、祟り他の概念が発生してしまっている、などでしょうか。また、日本の王道は、他国の王や形式的な元首と異なり数千年水準のものであり、この維持には、王の欠点、を暗黙のうちに理解しておく必要がありますが、昨今は他国の王水準でしかないものを過剰に求めがちな傾向もありそうです。

・ 仏教

 教義上は宗教としては相当優れているようです。四苦の解放という、内面からスタートしており、正道はその中身という扱いです。極端にいえば、正道から外れているような行為であっても、仮にそれが本当に楽しく、四苦から解放されるのであれば、正道の中身を書き変えてもいいということです。「善良」を説くだけでなくそれが「安楽」と関係しているということでもあります。
 誤解の発生が多く時代とともにとくに日本でも追加改良がなされています。真宗は悪人正機を説きます。また禅宗は、公案という、ここに来た者で仏教に触れていなければ誰でも直面する案件についての考察を重視します。
 但し相変わらずそれぞれ誤解が多く、昨今の場合、真宗は、慈愛は説くものの、最終的には自分が優先という、菩薩でしかない地蔵であったり、禅宗の場合、公案についての考察が重要なのであって座禅とは単に「楽な姿勢」程度の意味合いしかなかったもののはずが、かっこよく座ることが目的になったりしています。蓮如と一休とは親交が深かったそうですが、蓮如の場合真宗に多い内面の誤解を解くために御文という理論での伝教を重視しました。一方一休の場合は禅宗に多い外見の誤解を解くために行動での伝教を重視する傾向があったといえそうです。とくに神仏分離以降は神道とのわだかまりもあってか社会政策の提言内容もあまり優れておらず、神社のウェブなど、神道サイドでは仏教の教義からの引用がよくなされるのに対し、その逆があまりありません。

・ キリスト教

 浄土教に近い内容です。原罪等内面重視でもあります。但し神が弥勒菩薩レベルで、浄土だと時間も停止してしまうという視点が抜けていたりします。それよりもキリスト教圏においてこれを土台として誕生した各思想、とくに功利主義、実存主義系は仏教に近い部分があります。
 海外のキリスト教は、他に何もないのですから日本の神道などへの理解がかえって強かったりします。一方国内のキリスト教の方がかえって宗教融和の視点を欠いていたりするようです。

・ 共産主義

 殆どキリスト教と同じようなもので、なんで対立しているのかがわからない、というレベルです。社会政策と一体化することが多いのですが、教義的には、私有財産の否定よりも、個々の私有財産を強化する、という解釈に移行した、日本や改革開放以降の中国の方が進化しているようです。
 とはいえ科学的社会主義、現実的理想主義を掲げていながら、提唱する一段が急進的であったり(例えば犯罪者がいなくなれば警察はいらない、レベルのことを言っており、それは心の隅で忘れてはいけないこととして提唱すること自体は重要であるものの、今やるとかえって個人の人権や国家の主権の保全が損なわれます)またその分見落としが多かったり、あるいは単に少数意見を紹介することに目的が変わっていたりします。

・ 儒教

 近代以降どこかにいってしまったのですが、日本の京都堀川学派の仁愛、近江の日本陽明学の致良知などの追加改良は、それぞれ仏教の慈悲、一切衆生悉有仏性などに近いものがありそうです。ただし神道同様内面への配慮に弱みがあります。



 さてとはいえこれらが意味するものは全て同じようなものです。つまりこの五教は習合が可能です。
 これらがまとめて、むしろ逆に、マイノリティーとして、自己の強引な正当化のために迫害されているような状況が発生し、この五つのうちのどれか一つどころか、全てが相容れないような退廃が横行しており、危険な状態にありそうです。
 この五教を束ねることはもちろん今後必要となってきますが、一方で、これらのうちのどれか一つまたは複数についての理解促進も必要です。そしてそれは一人ひとりの意思に委ねられています。

 神道は伊勢、キリスト教は長崎などを拠点としていますが、これらを比較、検討、習合できるような地域というと限られてきそうです。堀川下立売、堀川学派伊藤仁斎の儒教は古義と言っているものの神仏儒を事前に比較しており儒教から大幅に飛躍しているようにも見られます。
 御池車屋町、石田梅岩の石門心学にいたっては最初から神仏儒を全部混ぜたことを前面に出しています。日常生活の中での実践を重視している辺りで、反日なはずの周辺国からも注目されているようです。石門は士農工商それぞれの役割を説きその意義に大差はないと言おうとしたはずですが、その過程でランクがたまたま一番下であった商の重視に時間を割いた結果、どういうわけかというかやはりというか、現代ではこれが、商人の利己的行為の正当化という誤解を生んでいるようです。
 西田幾多郎の場合も時局の関係上東洋重視というスタンスではありますが結局のところ中身は実存主義とあまり変わらない印象です。
 梅原猛は平然と歎異抄から聖書を連想しているようです。

 で、放置していたら、葬儀代に数百万をかけ、教会比率がワースト1or2で、トランプタワーが乱立しているようなところの発想が、webの発達した現代に大規模拡散中で、これに既存が未対応の状態にあり、再度まとめて束ねる必要が出てきたのでは、といったところです。これらの五教をとるのか名古屋・韓国をとるのかの二者択一が今迫られています。

 随並は百五十四、百六十九、百七十二と数字が続くタイトルのものが続きました。それぞれ九原則、十留意、五教ですね。合わせると二十四となりますので仮にこれらを二十四則と呼ぶとしましょう。
 及ばずながら、これらが教示するものが、一億総負け組社会である現状を、再び一億総中流に反転するため、地域市民社会にとって良い方に作用されることを希望します。

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(※16.11.24八留意の改筆です) 随並 小随筆169 指揮者十留意

一億総中流が、男女共同参画により雇用拡大となったとたん勝ち組負け組となり、それはすぐに、私の予想した通り、東大卒のエリートが、収益の安定している大企業電通において不法過労を苦に自殺という、一億総負け組の時代になりました。ここで、その象徴ともいうべき電通が、そのモラル破壊の集大成ともいうべき鬼十則を規定し、鬼という本来悪質なものをどういうわけか讃える風潮を生みだしていたことに合わせ、指揮者八留意を提唱したいと思います。これらは今まさに必要なものと言えるでしょう。勿論私もまだまだなのですが…。

1、国民による直接民主制では機動性に問題が出ますので、憲法改正などの重要事項でない、法律などの簡易な事項については代議士を選出し議会を組織して制定します。さらに機動性を必要とする簡易な事項については、議院内閣制においては議会の代理代表である内閣が政令を制定します。さらに機動性を必要とする簡易な事項については内閣の代表である首相の専権事項となります。
 このことからもわかる通り、少数なほど決められる事項が限られてきます。そして彼らは代理代表であり、一歩外に出れば同じ地域住民です。そして専権事項が各々限定されていることからもわかる通り、指揮者とは当該業務指示を出す権限しかありません。首相が住民を私的な晩酌に誘ったからと言って従う義務はありません。

2、指揮権には責任が伴います。その責任を回避することはできませんが、それを緩和する方法があります。昨今は「大きな声を使い反論に耳を貸さない」、「偽りのコミュ力」を賛美する傾向がありますが、ここに必要なのは、「配慮から声を小さくし、また小さな声にも耳を傾け、先方の方が正論と感じた場合に自論を撤回する」、「本当のコミュ力」です。より優れた声を多く上げる者があればすぐにでも指揮権を譲ることが求められます。正論と感じていながら支配欲を優先させてしまった場合、無理やりの自己正当化の手段として、マイノリティー差別の心理に陥ることがあります。とりわけ昨今は、少々文明が進んだからといって、「××は悲しんではいけない」「○○は自責をしてはいけない」など、自然科学や倫理を無視した風潮が目立ち、これらがマイノリティーとなっていることで、有史以来の倫理の危機が発生しているといえます。「××はひきこもり」といい自らは「広い世界」にいる、という「最大のひきこもり」が問題です。「コミュ二ケーション」、「大人」、「意識」、「社会」といった本来は大切な言葉が汚れた意味で用いられ謗法が充満しておりその修復が今後求められます。

3、法人による不正は論外の域です。但し現代は過去とは異なり監督者に当たる者が監督者足りえず法人が全員マフィア状態となっており、とくに2のような者は悪智恵ばかりを働かせていることも珍しくありませんので、今後は、刑事である監督署及び民事である労働審判の介入を当たり前とするのが適切でしょう。現状これは複雑な状態となっており改善が求められますが、事案に応じてどちらが適切かというフローチャートの例は163にて提示しています。

4、業務知識とは、あなたの家から駅までの行き方のようなものに等しいです。即戦力、自分で考える、などの美辞麗句が悪用される傾向があります。道案内を怠ってはいけません。オタクであっても近鉄に詳しい者は東武に疎く、東武に詳しい者は近鉄に疎いでしょうが、こういったことを言う者はあらゆることに疎い醜いイケメンです。

5、人的過失は誰にでも発生するものであり、科学的見地からの解決法を探ることが適切です。人により、それに当たる者と箇所には個人差が発生します。削減の目的として複数による確認があり、指揮者の役目は、それをゼロにすることではなく、その確認者の一人となることです。また、人的過失は人により、同じ箇所で同じことをやるという傾向があります。2度あることは10度ある、程度の感覚で臨むのが妥当です。

6、時間的都合により急ぐほど相手への配慮が欠けます。配慮不足により相手が憤ったり落ち込んだりした場合、責は配慮を欠いた側です。基本的相互人権への努力を仲良しごっこといってあざ笑い、その都合を逆手にとって不必要に煽る「スポーツごっこ」の風潮が、地域社会の代理である労働の現場で発生することを防がなければなりません。

7、日本の野党のように、AをしているときにはBをいい、BをしているときにAをいいだすともはや指揮者としての資質に関わってくるのではないでしょうか。

8、たいていのことは、「原則事前承認、緊急時事後承認」です。緊急か否かを最初に判断する権利自体は当事者が持っています。指揮者にはその判断が適切であったか否かを検証し、また、事後承認をしないという権利があります。但したいていはここまでで、緊急時においても全て事前承認とするのが適切なことというのはあまりないでしょう。

9、「あなたは××だ」といった総論ばかりで、では具体的にどのような一段が登れるのかを具体的に提示しない指揮者はその水準でしかない指揮者でしょう。

10、2のように基本的人権の維持に努める意思がない者がいる場合、相手が指揮者であっても3のように法的措置は今後当たり前となってきます。なお公的機関の遅れや不存在などによる個別・集団的自衛権も個人国家を問わず基本的人権のひとつです。遺憾なことではありますが、基本的人権の防衛の範囲であればその発動によって人権を侵害した側に発生する被害の責任は大小を問わず人権を侵害した本人の側にしかありません。

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坪内琢正 left a comment!

ブログプロフィール書き変えです

・ 関係機関メール送信は頻繁に実施していますが、ないときには全くないときもあります。
  特徴として、
  ・ 現実的理想主義に基づき実現可能性の高そうな一段を探る
  ・ 他に同様の提唱や主張をしている者が殆どいないか少ない
  ・ わずか数日で1本のメールで変えられるような内容でないので基本的に回答は求めない
  ・ 試しに言ってみる、といった主旨のものもあるが、回答を得ていないものの、上記の事由からか、手ごたえのようなものを感じることが多い
  といったことが挙げられます。

・ 書籍収入を含め収入の1%程度以上は、信頼のできる途上国NPOへの寄付枠としています。

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坪内琢正 left a comment!

雑記B


http://www.sankei.com/premium/news/160718/prm1607180022-n2.html

>14世紀にいたってヨーロッパの白人たちがアラブ人から習った航海技術によって大洋を渡り西インド諸島を皮切りに有色人種の土地を植民地化し原住民たちを獣のように狩りたてるのを眺めて流石(さすが)に眉をひそめた宣教師たちが、時の法王のパウロ3世に彼ら有色人種をいかにみたてたらよかろうかとお伺いを立てた時、法王が『彼らは獣と見なしたらよろしい、ただしキリストに改宗させたら人間と見なせ』と言い渡した文書が最近バチカンで発見されている。



相変わらず国語で 主語はどれか と問われそうな… 大主語は最後の「文書が」やんね^^;
こんなん書けへんわ と思ってたら



http://xn--tck7crbj.com/comments.html/20161006-00000117-nksports-soci

> 「私は、今般の築地市場移転問題に関する東京都の調査に協力する意思に変わりはなく、『都による聞き取りを拒否した』とマスコミに報道されていることに戸惑っております。私としては、年齢を重ねていて、記憶が正確でないことに加え、このところ体調がすぐれないため、事情をお聞きいただく場合には時間や方法に配慮していただきたいと思っております。そして、出来ることなら(東京都の)実務担当者から事情を聴いていただいた結果を踏まえて、書面によりご質問いただければ、記憶を整理して誠意をもってお答えしたいと考えており、東京都にもその旨申し入れているつもりです」



あれ いつもの 主語探し にあんまし苦労せえへん。このくらいやったら書けるわな。と。
一文に句読点を駆使して詰め込んでいますがこれは私もよくやりますし。
文書の目的とかは多分関係ないでしょう。

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坪内琢正 left a comment!

ツイッタ―から

わざとなき ということにしてあるよ一応

でもこれ、これ以上やったら私はガチ泣き、という意味でもあるよね

そのときに私が言うであろうセリフは

「なんでこんなことするの?」

だって。

「弱い結衣は結衣じゃない」

なんていう人いそうなんだけど



あるいは 「結衣ならOKだが××はダメ」 なんていうのもありそうなんだけど

まぁそういうふざけたのはいいとして

「なんでこんなことを」

つまり相手が全く読めない

これ、相手、面白がってさらにやってくるときもあるかな



「弱い結衣は結衣じゃない」なんて言われるどころか

アシは「それが原点」

なんて…

…//



オタクとイケメンの壁がなかなか破れない
どうも壁を築いて閉じこもっているのはイケメンの側らしい



お正月にドクロを持って「アテンションプリーズ!」と言いながら市中を歩く僧侶がおり、最初は、みんな、その正体を知っていながら、冗談、という感じだった。



と思っていたら本当に正体を知らない人が大量に出てきて…知っている者もこれまで似たようなことを冗談でやっていたのでなかなか抵抗がしずらいという感じなんだが



そろそろ言わないといけないレベルかな。
彼は一休禅師だ!



なんか伝わらないと思ったら
重大なことに気付いてなかったな。
引きこもり呼ばわりが実は一番重度の引きこもりだよ

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小随筆167 マイノリティー迫害の本当の解消に向けて

マイノリティー迫害、あるいは KY呼ばわり者=ひき逃げ犯 ではないかと私は思っています。
「商店街の中に車が/で来た、みんな車を避けているのに一人だけ、どんくさい者がいて跳ねられて、血を流し倒れ苦しんでいる、KYな奴だ、甘えるな、救急車など自分で呼べ、車はそのまま走り続ける」
KY呼ばわり者の論理は全てこれに集約されると思います。

あまりに酷いので殆ど意識すらしたことがありません。
ではそのような意識を殆ど持っていない者がなぜいるのでしょうか。
これには周囲環境が関係しているのか、というと、私は、それはたまたまそういう事例があった人もいるというだけで、全く関係していないと思います。
例えば家計状況ですが…保育園児や小学校低学年は普通そんなことは意識しません。
あるいは、虐待を受けた子どもは非行に走りやすい、というのもありますが、それを言うのであれば、詳細は伏せますが、私も、利き腕を矯正されるような水準の明らかに科学的に悪質な虐待なら受けていますが、今、こういった記事を書いています。
結局これはどれだけ自分を見つめてきたかというだけの問題でしょう。
自分の感情は他者一人ひとりと異なり完全な理解ができない、しかしだからこそ思いやり、感情移入は楽しい、もはや感情とは感情移入をするためにあるようなものでは。そうなると車ではねられた人を見てKYなどという感覚などもはやそもそもどこかに行きます。

さて、これまで私は、議論をしていて、こういった罵倒だけしていく者について、暴発している可能性が高いとの見方を主流としてきました。
ただ、暴発というのは、あまりに安楽からは遠い心情なので、すぐにやめるはずなのですが、妙に長いと感じるときもありました。
そこで今回もう少し考察をしてみました。

まず、神道はもののあはれの発見を、仏教は四苦解放の心理の発見を、キリスト教は原罪の発見をそれぞれ教義の根本としていますが、この三教は全て同じものを意味しています。
そして勿論このような教義に気付かず偶像崇拝をする六道ももちろんおり、マイノリティー迫害などをするのは主にそういった者たちだったでしょうが、今私がこうして、このような、「後からこの世を訪れた人向けこの世の過ごし方ガイド」を読めるくらいにこれらは伝えられてきたのですから、人々の多くは三教を理解し実践していたと思われます。

一方、戦後の経済成長によりビル街が誕生しました。ビル街というのは少しだけこれまでより強固なものです。木造家屋だけしかなく原爆ドームしか残らないようなところであれば、暴発すれば原爆を落とそうという気にもなるでしょうが、ビル街はそれすらある程度なくさせるほどの抑止力を持ってはいます。方丈記には「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず、世の人と栖(すみか)とまたこれに同じ」とありますが、このうち栖に対する感覚が少しだけ錯覚しやすくなりました。…と思っていたら錯覚者が充満する事態となりました。かつての偶像崇拝者に代わり、ビル街崇拝者が溢れてきました。ビル街は三教の対象から除外とでも思っているんでしょうか。

それと同時に、マイノリティー迫害をする大半は勿論このようなビル街崇拝者でしょうが、合わせて、かつてのマイノリティー迫害の対象は「身障者」や「高齢者」でしたが、最近では彼らはこれらは神棚に上げるような感覚となってきているらしいです。合わせてここに、「子ども」、「親日の訪日外国人」、「女性」なども加わるようになってきました。
では後残っているのは…「健常な日本人の男性」です。そして、ビル街崇拝がマジョリティとなっている以上、マイノリティーとは…

なんと「神道、仏教、キリスト教のいずれかの根本を理解し実践している(どれか一つをしているだけで三つを満たします)者」となってしまいました。でとくに「健常な日本人の男性」だそうです。

わりと有史まれに見る危機ですねこれは。
まぁ、「このような者たちも含めて全ての差別を解消し受け入れよ」というマイノリティー迫害の本当の解消の最前線に立てるのであればそれはそれで別にいいんですが。

そして、六道はあれはあれで、わりと、きっかけ、即ち縁がないとなかなか四聖にならないものです。
つまり、過程の一段階である以上、六道は六道で一定の偽りの安住があるということでしょう。
同様に、マイノリティー迫害者も、暴発のようなどうせすぐに冷めるようなものではなく、一定の偽りの安住がありそうです。
とはいえわざわざこんな高等な技術で偽りの安住を得るなどある意味驚きでもあります。
ちょっとだけ電車の車内を見てみましょう。
バリアフリー促進により車イス利用者など大勢です。
医療技術向上に伴い高齢者も大勢です。
日本に関心を抱いた訪日外国人も6000万計画で大勢です。
気づきませんかね。あれを神棚に上げ、これを神棚に上げ、をしているうちに、マイノリティー迫害者がもっとも恐れるマイノリティーはまもなくマイノリティー迫害者自身になるということに。

わかり合おうとした結果、余計なものを見つけてしまった、という感じではあります。これは今まで殆ど気付かなかったのですから。
私はレスでの罵倒語の使用は記憶の範囲では有りません。但し煽りはした記憶があります。今思えば、本当に憤っているのであればともかく、わざわざ標準語に変換するだけの余裕があるのに怒ったふりをしてまでのこうした行為は恥ずかしいものです。レスは全て保管してありますので探せばどこかにあるでしょう。
ただ罵倒語使用が一瞬頭をよぎり、逡巡の後書かずに撤回、というのはときどきありました。これからもないなどとは保障できません。
恒例ですが、「ふざけて殴り合える仲」であっても場合によって相手がそれで憤りまたは落ち込んだ場合の責任は既に殴った側です。
そしてこういうものを見つけてしまったので、私も…今後、マイノリティー迫害も、全く想像もしないレベル、ではなく、逡巡の後書かずに撤回、あるいはもっと酷いことに、ということになってしまうかもしれません。

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小随筆167 マイノリティー迫害の本当の解消に向けて

マイノリティー迫害、あるいは KY呼ばわり者=ひき逃げ犯 ではないかと私は思っています。
「商店街の中に車が/で来た、みんな車を避けているのに一人だけ、どんくさい者がいて跳ねられて、血を流し倒れ苦しんでいる、KYな奴だ、甘えるな、救急車など自分で呼べ、車はそのまま走り続ける」
KY呼ばわり者の論理は全てこれに集約されると思います。

あまりに酷いので殆ど意識すらしたことがありません。
ではそのような意識を殆ど持っていない者がなぜいるのでしょうか。
これには周囲環境が関係しているのか、というと、私は、それはたまたまそういう事例があった人もいるというだけで、全く関係していないと思います。
例えば家計状況ですが…保育園児や小学校低学年は普通そんなことは意識しません。
あるいは、虐待を受けた子どもは非行に走りやすい、というのもありますが、それを言うのであれば、詳細は伏せますが、私も、利き腕を矯正されるような水準の明らかに科学的に悪質な虐待なら受けていますが、今、こういった記事を書いています。
結局これはどれだけ自分を見つめてきたかというだけの問題でしょう。
自分の感情は他者一人ひとりと異なり完全な理解ができない、しかしだからこそ思いやり、感情移入は楽しい、もはや感情とは感情移入をするためにあるようなものでは。そうなると車ではねられた人を見てKYなどという感覚などもはやそもそもどこかに行きます。

さて、これまで私は、議論をしていて、こういった罵倒だけしていく者について、暴発している可能性が高いとの見方を主流としてきました。
ただ、暴発というのは、あまりに安楽からは遠い心情なので、すぐにやめるはずなのですが、妙に長いと感じるときもありました。
そこで今回もう少し考察をしてみました。

まず、神道はもののあはれの発見を、仏教は四苦解放の心理の発見を、キリスト教は原罪の発見をそれぞれ教義の根本としていますが、この三教は全て同じものを意味しています。
そして勿論このような教義に気付かず偶像崇拝をする六道ももちろんおり、マイノリティー迫害などをするのは主にそういった者たちだったでしょうが、今私がこうして、このような、「後からこの世を訪れた人向けこの世の過ごし方ガイド」を読めるくらいにこれらは伝えられてきたのですから、人々の多くは三教を理解し実践していたと思われます。

一方、戦後の経済成長によりビル街が誕生しました。ビル街というのは少しだけこれまでより強固なものです。木造家屋だけしかなく原爆ドームしか残らないようなところであれば、暴発すれば原爆を落とそうという気にもなるでしょうが、ビル街はそれすらある程度なくさせるほどの抑止力を持ってはいます。方丈記には「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず、世の人と栖(すみか)とまたこれに同じ」とありますが、このうち栖に対する感覚が少しだけ錯覚しやすくなりました。…と思っていたら錯覚者が充満する事態となりました。かつての偶像崇拝者に代わり、ビル街崇拝者が溢れてきました。ビル街は三教の対象から除外とでも思っているんでしょうか。

それと同時に、マイノリティー迫害をする大半は勿論このようなビル街崇拝者でしょうが、合わせて、かつてのマイノリティー迫害の対象は「身障者」や「高齢者」でしたが、最近では彼らはこれらは神棚に上げるような感覚となってきているらしいです。合わせてここに、「子ども」、「親日の訪日外国人」、「女性」なども加わるようになってきました。
では後残っているのは…「健常な日本人の男性」です。そして、ビル街崇拝がマジョリティとなっている以上、マイノリティーとは…

なんと「神道、仏教、キリスト教のいずれかの根本を理解し実践している(どれか一つをしているだけで三つを満たします)者」となってしまいました。でとくに「健常な日本人の男性」だそうです。

わりと有史まれに見る危機ですねこれは。
まぁ、「このような者たちも含めて全ての差別を解消し受け入れよ」というマイノリティー迫害の本当の解消の最前線に立てるのであればそれはそれで別にいいんですが。

そして、六道はあれはあれで、わりと、きっかけ、即ち縁がないとなかなか四聖にならないものです。
つまり、過程の一段階である以上、六道は六道で一定の偽りの安住があるということでしょう。
同様に、マイノリティー迫害者も、暴発のようなどうせすぐに冷めるようなものではなく、一定の偽りの安住がありそうです。
とはいえわざわざこんな高等な技術で偽りの安住を得るなどある意味驚きでもあります。
ちょっとだけ電車の車内を見てみましょう。
バリアフリー促進により車イス利用者など大勢です。
医療技術向上に伴い高齢者も大勢です。
日本に関心を抱いた訪日外国人も6000万計画で大勢です。
気づきませんかね。あれを神棚に上げ、これを神棚に上げ、をしているうちに、マイノリティー迫害者がもっとも恐れるマイノリティーはまもなくマイノリティー迫害者自身になるということに。

わかり合おうとした結果、余計なものを見つけてしまった、という感じではあります。これは今まで殆ど気付かなかったのですから。
私はレスでの罵倒語の使用は記憶の範囲では有りません。但し煽りはした記憶があります。今思えば、本当に憤っているのであればともかく、わざわざ標準語に変換するだけの余裕があるのに怒ったふりをしてまでのこうした行為は恥ずかしいものです。レスは全て保管してありますので探せばどこかにあるでしょう。
ただ罵倒語使用が一瞬頭をよぎり、逡巡の後書かずに撤回、というのはときどきありました。これからもないなどとは保障できません。
恒例ですが、「ふざけて殴り合える仲」であっても場合によって相手がそれで憤りまたは落ち込んだ場合の責任は既に殴った側です。
そしてこういうものを見つけてしまったので、私も…今後、マイノリティー迫害も、全く想像もしないレベル、ではなく、逡巡の後書かずに撤回、あるいはもっと酷いことに、ということになってしまうかもしれません。

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雑記(特);小随筆128 「男女共同参画社会の本質」とそこにおける職場・家庭に…

 小随筆128

1、「善悪反転社会」の到来により価値観の反転と有史以来の荒廃が発生している状況下にあるが、これを修復する具体的な対象は「男女共同参画社会」の本質を理解することにある。
2、孤独の心理的負担は健康であっても想像以上に巨大。これを異端扱いするのも不適当であるし、またこれを生きることへの妨げとしてはならないものの、孤独の価値観の拡大を阻止する必要があり、移民などによって社会保障が維持されればいいという問題ではない。スポーツごっこ風潮のさかんな昨今、労働現場などではこれは癒されない事例の方が多い。人の強弱に関わらず、身体が健康で衣食に不自由がなくとも、身体は心と関係なく自動的に孤独に重大な警戒を示し、これが心体のバランスを崩し、体力上は衣食などはできてもそれ以外が寝たきりになることもまれではない。
3、倫理観の希薄な戦後団塊世代の作り出した単世帯家庭は祖父祖母の独居を作りだし危険であり、複世帯家庭の再構築が必要。核世帯で子がいるのは15~20年程度だが高齢化に伴いその後50年程度は最大でも祖父母二人になる。先死する方はまだましだが残された方が悲惨になることまで考慮すべき。同世代ではない次世代でないとそれは解消できない。
4、さくらヒロシ400万さくらスミレ専業主婦の状態が、男女共同参画社会にともない父母ともに200万ずつから成る状態になる。配偶者を収益で決めることは極めて不適切。なおこの状態で友蔵やまることともに二世帯になる。男女共同参画はこれを受け入れねばならず、そうしなければ少子化の克服は困難である。
5、収益格差の拡大原因は男女共同参画社会によるものであって個人の能力との因果関係は希薄になる。
6、男女共同参画社会によって単純にも、社会基層単位である家庭の団欒の時間が減少する。違法残業は社会の敵として撲滅。
7、窓際族どころか、個人差程度の能力や自然科学的には誰にでもおこりうる人的過失を言い訳にした不当解雇、不当雇い止め、パワーハラスメントが横行しやすくなる。第一次産業がさかんであった過去に代わって『世帯の集合体』である『地域市民社会』である『労働の現場』から、最低限の人権すら『仲良しごっこ』と排除する、『スポーツごっこ』の風土や、労働を言い訳にした抗争を撲滅、智恵と慈悲を労働の現場における基本倫理とすべき。
8、核家族の構成による団塊世代の少人数化と、団塊ジュニア世代の未婚が増大し、これが世間全体に「孤独」を充満させる結果を生んでいる。無論それにより思いやりが増す場合もあるが、攻撃性が増す者もいる。このため火曜日版サザエさんOPのように「ニコニコ顔出す愉快な家庭 私もサザエさん あなたもサザエさん」のような家庭・地域が破壊されている。
9、「孤独」と「善悪反転」は悪循環のスパイラル状況にある。その原動力は、外見の小奇麗さとは裏腹の人の利己主義である。その具体的な内容として、・ とくに女性に顕著であるが異性を金銭化したり義親を軽視している。 ・ 本来改善に向かうべきはずの労働環境の退行 ・ 高齢者軽視の核家族化 ・ 男女両性に顕著であるが、婚姻、さらには出産、孝行といった本来重要なことまでもが、社会全体でできるようにすることを考えるのではない「自己の名誉自慢のための道具」と化している。外見がイケメンの醜い者たちによるこれら名誉自慢によってこれらの本来大切な行為すら悪と錯覚されかねない状況 などの諸現象が現れている。この悪循環を断ち切ることが今この瞬間私たち一人ひとりに求められている。
10 社会全体を覆う孤独、善悪反転状態を解消し、安穏を得るためには一人ひとりが上述の内容を理解し、行動に移すよう精進しなければならない。一人ひとりが、枯れ木に登って「勝ち組」を求めて得られる安穏は仮初めのものであって意味がないと気付かなければならない。



7加筆、10追加しました。

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畿内信仰案また浮上

「京都」「日本」で分けている現在ときどき出ては、日本のうち「畿内(京都市内以外)」だけ分離しなイカという案で、3回目くらいですね。比率が少ないとボツになっていますが、増やせる文献が出たり消えたり。

さて「京都」は 著名+マイナー の組み合わせが多いですが
「日本」はマイナー社寺を出してもあれなので民間信仰ネタが多いです。

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畿内信仰案また浮上

「京都」「日本」で分けている現在ときどき出ては、日本のうち「畿内(京都市内以外)」だけ分離しなイカという案で、3回目くらいですね。比率が少ないとボツになっていますが、増やせる文献が出たり消えたり。

さて「京都」は 著名+マイナー の組み合わせが多いですが
「日本」はマイナー社寺を出してもあれなので民間信仰ネタが多いです。

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雑記(特);小随筆128 「男女共同参画社会の本質」とそこにおける職場・家庭に…

 小随筆128

1、「善悪反転社会」の到来により価値観の反転と有史以来の荒廃が発生している状況下にあるが、これを修復する具体的な対象は「男女共同参画社会」の本質を理解することにある。
2、孤独の心理的負担は健康であっても想像以上に巨大。これを異端扱いするのも不適当であるし、またこれを生きることへの妨げとしてはならないものの、孤独の価値観の拡大を阻止する必要があり、移民などによって社会保障が維持されればいいという問題ではない。スポーツごっこ風潮のさかんな昨今、労働現場などではこれは癒されない事例の方が多い。人の強弱に関わらず、身体が健康で衣食に不自由がなくとも、身体は心と関係なく自動的に孤独に重大な警戒を示し、これが心体のバランスを崩し、体力上は衣食などはできてもそれ以外が寝たきりになることもまれではない。
3、倫理観の希薄な戦後団塊世代の作り出した単世帯家庭は祖父祖母の独居を作りだし危険であり、複世帯家庭の再構築が必要。核世帯で子がいるのは15~20年程度だが高齢化に伴いその後50年程度は最大でも祖父母二人になる。先死する方はまだましだが残された方が悲惨になることまで考慮すべき。同世代ではない次世代でないとそれは解消できない。
4、さくらヒロシ400万さくらスミレ専業主婦の状態が、男女共同参画社会にともない父母ともに200万ずつから成る状態になる。配偶者を収益で決めることは極めて不適切。なおこの状態で友蔵やまることともに二世帯になる。男女共同参画はこれを受け入れねばならず、そうしなければ少子化の克服は困難である。
5、収益格差の拡大原因は男女共同参画社会によるものであって個人の能力との因果関係は希薄になる。
6、男女共同参画社会によって単純にも、社会基層単位である家庭の団欒の時間が減少する。違法残業は社会の敵として撲滅。
7、窓際族どころか、個人差程度の能力や自然科学的には誰にでもおこりうる人的過失を言い訳にした不当解雇、不当雇い止め、パワーハラスメントが横行しやすくなる。第一次産業がさかんであった過去に代わって『世帯の集合体』である『地域市民社会』である『労働の現場』から、最低限の人権すら『仲良しごっこ』と排除する、『スポーツごっこ』の風土や、労働を言い訳にした抗争を撲滅、智恵と慈悲を労働の現場における基本倫理とすべき。
8、核家族の構成による団塊世代の少人数化と、団塊ジュニア世代の未婚が増大し、これが世間全体に「孤独」を充満させる結果を生んでいる。無論それにより思いやりが増す場合もあるが、攻撃性が増す者もいる。このため火曜日版サザエさんOPのように「ニコニコ顔出す愉快な家庭 私もサザエさん あなたもサザエさん」のような家庭・地域が破壊されている。
9、「孤独」と「善悪反転」は悪循環のスパイラル状況にある。その原動力は、外見の小奇麗さとは裏腹の人の利己主義である。その具体的な内容として、・ とくに女性に顕著であるが異性を金銭化したり義親を軽視している。 ・ 本来改善に向かうべきはずの労働環境の退行 ・ 高齢者軽視の核家族化 ・ 男女両性に顕著であるが、婚姻、さらには出産、孝行といった本来重要なことまでもが、社会全体でできるようにすることを考えるのではない「自己の名誉自慢のための道具」と化している。外見がイケメンの醜い者たちによるこれら名誉自慢によってこれらの本来大切な行為すら悪と錯覚されかねない状況 などの諸現象が現れている。この悪循環を断ち切ることが今この瞬間私たち一人ひとりに求められている。
10 社会全体を覆う孤独、善悪反転状態を解消し、安穏を得るためには一人ひとりが上述の内容を理解し、行動に移すよう精進しなければならない。一人ひとりが、枯れ木に登って「勝ち組」を求めて得られる安穏は仮初めのものであって意味がないと気付かなければならない。



7加筆、10追加しました。

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