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随筆並行 17.12.22
 新説レベルのことになっているかもしれません。
 性別、年齢、人種、肌色、出身地、職業、経済情勢、疾患…の個別の差別をするのが問題なのではありません。
 相手の特徴に対し、会話などのさいにそれが関係があるのかないのかが問題なのではないかと考えつつあります。
 一例としては、「日本人は諸事情のため統計上英会話ができる人が少ない」というのは「差別」ですが、だから英会話の学習を充実させよう、というのはあまり問題ではないと思います。ですが、日英間で貿易摩擦が発生していて経済議論を双方でしているときに、英国人から「英会話ができないくせに」といわれるとダメではないでしょうか。
 「これだから~は」差別と「~のくせに」差別の違いではないかと思います。「関係の有る差別」と「無関係な差別」とも言えます。
 二例目としては、たとえば子どもと車に乗っているとします。交差点で右に曲がったところ、子どもが、「今のは左じゃないの?」と言ったとします。本当に右が正しいと自分で思っているときは、「これだから子どもは」という「子ども差別」の心境はむしろあった方が落ち着いて説明ができます。
 問題なのは、自分でも子どもの言う通り左だったと気づいたときです。ここで「子どものくせに」は子どもに対するペダルを踏み間違えているのではないでしょうか。そのままだと目的地からどんどん離れていきます。
 つまり、「~のくせに」系の無関係差別の対処として、個別に、黒人に、女性に、ハンセン病に、などとやっていてもあまり効果はないのです。彼らは「常に新しいハンセン病患者を探している」のですから。「20世紀の同性愛差別や女性差別、21世紀の少女愛差別や男性差別」と考えます(とくに、前者は、「女性は情動的で合理的思考ができない」、後者は、「男性は暴動的でなくてはならず合理的であってはならない」などです)。
 また、深察すれば偏見、つまり不適切な感情ですが、人によっては、集団浅慮というものもあります。本来は善悪を問いませんがここでは狭義に「善意」の「集団浅慮」を指すことにします。無関係差別を善意でやっているときもありそうです。とんでもないことを言っているにもかかわらず当人に悪意が感じられないのです。説得の余地がありそうですが。
 
 この「無関係差別」は、「善悪ではなく強弱」に由来する「自己正当化」です。「過剰同調」もこれに当たります。
 「自己正当化」は適応規制の一種とされていますが、ここでは自己正当化を総称扱いとします。差別とまではいかないものの「論点逸らし」もこれに当たります。
 他にいくつか例を挙げれば、
 「総論多用」:「お前は無能だ」などの総論があるものの具体論がほとんどありません。自分はじゃんけんで相手に勝てると思っていた、しかし相手はパーを出し自分はグーを出した、しかしとにかくお前の負けだ、といったところでしょうか。逃避、退行などにも分類されていた気がします。
 「揚げ足取り多用」:人の案にデメリットゼロというのはありません。何割かはデメリットがあります。そのデメリットがどれだけ少ないかが問題になります。ちなみに、合理的思考というのは、「正義の思考」というより、実は、「やむを得ない」という「悪人正機の慚愧」が「大きい」方かもしれません。で、デメリットの指摘は別にいいのですが、対案ゼロの場合、それは発案者の案の補完にしかなれません。これで自己を相手の補完以上と思うとそれは自己正当化です。

 で、なんでこんなものが流行って「集団自己正当化中毒」になっているんでしょうか。
 乱世、戦時、末法などいろいろな表現がこれまでありましたが、現状はどれにもあたりません。
 というのは、末法は末法、戦時、「異常事態」であると認識されているからです。現状、末法は「正常状態」、乱世と騒ぐものは中二病、との風潮です。
 ですので、末法が像法につぐ危険フェーズ3とすれば、現状はフェーズ4になります。なんですかこれ。
 歴史を見てみましょう。かつては核の傘はありませんでしたから、明治さんは、「韓国がこの水準のままでは危ない、大連までロシアが来ている、38度で安定した停戦がひける想像がつかない、もうすぐプサンまでロシアがやってくる」と危惧し朝鮮総督を設置しました。
 同様に、「『火災と暴行が「江戸」の毒花』では日本は近代化できない、あの火災と暴動を抑制してくる」と外洛しました。ですが現状、『火災と暴行は「瑞穂」の毒花』になってしまい、やや明治さんの当初の目的達成のためには補正がいる状態のようにみえます。国民から御恩と奉公か何かの契約を結んだと勘違いされている当今さんを今いきなり連行しても鳥羽伏見されるだけなのでそれは困りますが。
 もう少し考えてみましょう。かつて、「『力のある少数』に対する、『力のない多数』の(劣等)コンプレックス」が一般的でした。しかし逆のものが昨今充満してはいないでしょうか。すなわち、「『力のない少数』に対する、『力のある多数』の(劣等)コンプレックス」です。なお理でなく力の有無ではコンプレックスは逆になると思います。でやるせなく火力の調達に回らさせられるのですが。
 ちょっと脱線します。「東京コンプレックス」という言葉があるそうです。大阪などはそんなところがありそうです。ところが実際に外から東京に行ったものでそれを感じているものは11%程度だそうです。逆に、出張などであの町に行くたびに早く帰りたくなる、というコラムは著名個人を問わずしばしば見かけます。もしかするとあれは「逆東京コンプレックス」かもしれません。
 私自身はどうでしょうか。これは理のコンプレックスでしょうか。自分の足の一部である公共交通機関が京阪特急から中央線とかになるのですが。未開地冒険旅行みたいに一時的に訪れるにはいいかもしれませんが、移住はちょっとそれは…悲鳴です^^; 自分の成果でない類型の優越感(勉強した結果いい点数を取った、の方ではなく、中国にいなくてよかった、の方です)はありそうな気がしますが。あとは、人口では京都は北京や東京に比べて少ないですので、小泉首相ではありませんが、地動説を唱えているときのような、力のコンプレックスはあるかもしれません。
 話を元に戻します。「『力のない少数』に対する、『力のある多数』の(理の劣等)コンプレックス」が発生したときに、これへの対処はどうすれば当人にとって解決となるのでしょうか。その解決のペダルを踏み違え、またその踏み違えが多数となること…「『力のある少数』に対する、『力のない多数』の(理の劣等)コンプレックス」でしたら過去にいくつも対処法がありましたが、「『力のない少数』に対する、『力のある多数』の(理の劣等)コンプレックス」は過去の者の想定外でフェーズ4のようです。

 「少数強者に力があり、多数弱者には理がある」場合の対処法は過去多く示されてきました。「多数強者に力があり、少数弱者に理がある」場合のそれというのはほとんどありません。
 力があるが理のない多数強者と、理があるが力のない少数弱者、「見苦しい」と感じることが適切と思える方はどちらでしょうか。
 踏むペダルが逆になっていないでしょうか。
 罵倒や冷笑といったものをアへ顔で吸引することは既に同時に自苦を発生させるもの、自苦行為です。
 それがスタンダードと思っているということは、その人の周囲には、その解決方法を教えてくれる人がいなかったということかもしれません。
 そして同時に、それに気づくことは、解決方法を知るチャンスでもあるかもしれません。

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