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【修正報告】『レスの方針17.09.18版 長文版』
【修正報告】
『レスの方針17.09.18版 長文版』
https://medibang.com/book/891711270342128760000025178

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はじめに零を加筆しました。


補論:マインドセンシティビティを大切にすること~暗黒平成時代が二度と来ないように~
 HSP、ハイセンシティブパーソンとは、直訳すれば感受性の高い人ですが、これだと、視覚、聴覚など、つまり音や光にも敏感な、知覚過敏のニュアンスとの誤解を招きやすいので、ここでは、とりわけ他者への思いやりの深さに注目して、マインドセンシティビティ(MS)という言葉を用いることとします。
 単純に言って、マインドセンシティビティが高いことは人間として長所でしかありませんし、健常でしかありません。これへの保障はもちろんこれまで通り不可欠ですが、それは単純に差別によるものです。
 なおこれは生身の人間のみならず、動植物や無機物にも向けられるものです。例えば、ペットやぬいぐるみや盆栽や蒸気機関車などです。
 但し生身の人間との違いとして、いわゆる乗っ取り行為が、本人への親告でないと認められにくいというものがあります。このため生身の人間との交流の方が上位に来ることが多いとは言えます。
 とはいえそんなことはマインドセンシティビティの高い人間からすればすでに承知のことです。それを揶揄する方がマインドセンシティビティが低い行為と言わざるを得ません。
 また生身の人間が100%で、無機物などが0%というものでもありません。生身の人間相手であっても、例えば実はあまり要らないプレゼントを贈ってしまい、無理に喜ばせてしまう、ということなどもありますので。
 いずれにせよ、このマインドセンシティビティは人間生活にとって極めて重要なものです。その人間が幸か不幸かが、マインドセンシティビティの有無と直結しているかもしれないとすら言えるでしょう。
 またこれについては、個人的な所感としては、あまり会わない、趣味など自分の好きな分野で合う相手よりも、天気程度の話題しかしなくても、高頻度に出会う同一人物の方に高く感じると思っています。
 さてこの、健常者たちの持つマインドセンシティビティにとっての敵が、理を欠いた者の行為です。こういうとそのようなことはめったにないと思われがちですが、実はそうでもありません。
 人は誰でも自分が正しいと思いたいものですので、自分に理があると思っているうちは、あくまでロジカルに話します。
 問題は自分に非があると感じてしまった場合です。この場合は、結局は、女々しく謝ることしか修復の方法はありません。とはいえそれができる人はあまりいません。また謝罪によって修復どころかかえってそれを口実に過剰補償を求める者も多いです。ここでペダルの踏み間違え、即ち「善悪から(集団などの)強弱へのすり替え」が発生します。いわゆる「○○(全く無関係)のくせに」というものです。
 これについてここでは、マインドセンシティビティの対義語、対義的行為として、つまり単純に疾患的な行為として、力への置き換え、すなわち、パワーリプレイスメント(PR)と呼ぶこととします。私自身を含め、それが下位の選択肢であると気づいているかいないかを問わず、これはよくやってしまうものです。
 とはいえこれだと人間として思考停止のゾンビ状態です。なお悪いことにここでさらなる自己正当化、パワーリプレイスメントの補強の言葉として、「社会人」、「コミュ力」と言った不気味な言葉が跋扈していることはすでによく知られていることです。
 この状態の者には正当防衛しか選択肢がありません。もちろんそれは遺憾なものです。また労働虐待をはじめとする各種虐待などの行為は、単純に、それに対する抑止力の不足が原因です。即ち単なる無秩序です。そのような場所において、自己正当化のために、「能力」、「適応」などと言った、こちらも同じく不気味な言葉をいくら用意しても、悪質なのはどちらかははっきりしています。
 健常者たる、優れたマインドセンシティビティの強いものほど、この疾患状態であるパワーリプレイスメントは、それが大きければ大きいほど、それは依存できる、安心できる存在などとは決して思えず、ゾンビワールドですし、単なる危険なもの、自然災害としか思えません。マインドセンシティビティを大切にするとともに、パワーリプレイスメントの脅威には、単純な自然災害のような処理が必要であると考えます。

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18.11.14加筆

 猛犬を市街に放つと大変なことになります。それに鎖が要るのと同様、残念ながら、人にも、話し合いで解決できない相手には、ルールや規則といった抑止力の鎖が必要になります。たとえ猛犬のような者が少数であったとしても、それがないと、市街地はたちまち彼らの支配が優先されがちになります。
 とはいえこれは奇妙な光景であるとも言えます。多くの人が、心では、こんなよくないことはしてはいけない、と思いながら、体では逆のことをしているのですから。
 もちろんその場に、ちょうど印籠のようなものを持ち込むことは実は容易です。100人中99人がおとなしくしていても、1人が通報、告訴すればおしまい、といった判例も数多くあります。ですが強制力も強いため人間の方策としてはこれは相対的に下策と言えます。
 なぜなら比較的多数が上記の、心と体のギャップ行為をしているからです。
 もちろんこれは精神衛生上疾患状態です。疾患だからこそ辛さや悲しさを感じるのです。
 少なくとも、相手への敬意などから来る緊張などによる、所謂「コミュ障」は病気でも何でもない健常者のすることですが、それに比べれば、上記のような、いやいやヘコヘコするような行為は何十倍も病人のする行為であると言えます。
 比較的多数が、心ではこれはよくない、こんなことはやめたいと思いながら、お互いに攻撃をし合っているなど、滑稽ですし、それで溢れかえっているような場所は滑稽な集団病棟のようでもあります。もちろんこれを「日本病」などと厚かましく広めていただいては困ります。せいぜいこれは「東名病」ですし、その範囲はさらに削減が必要と言えます。
 何しろこれは、流れに流されない、本心で持って、多数決で解決する可能性のある案件です。もちろんその状態は、お花畑でも甘えでもない、最低限度の相互人権の確保された状態でしかありません。だからこそ上述の印籠を出す方法を相対的に下策と述べたのです。
 優れたセンシティビティを持つ者は、自然にそれが備わっているというより、自発的にそれを持っている、ということが多いです。それは単にその方が精神的に落ち着くからでしょう。その内容は、相手が楽しんでいるときは自分も楽しいと思い、相手が悲しいと思っているときは自分もそう思うというものです。優れたセンシティビティを持つ者が感じる悲しさの中でも、上記のような滑稽な集団病棟のようになって、心で泣いている連中を目にした時の悲しさは、相当大きなものであると言えます。

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18.11.16加筆

 果たして平成後期暗黒時代の現代、精神疾患にかかっている方はどのくらいいるのでしょうか。
 年金老人たちはもちろん、そんなのは1割に満たない、というでしょう。
 では果たして、年金老人たちの好みそうな、「若者のクルマ」のTVCMに騙されて、自分は一部の愚かな精神疾患者、と思っている者の比率はどの程度なのでしょうか。本当の比率を、本当に素直になってみてみましょう。
 但しまず、ここから、元から規則という鎖で繋ぐしかなかった、人間の皮を被った、年金老人たちの好みそうな、体育系は、母数、子数としても、人間でない以上除外します。母数は、ただ単に、体育系などではない、私たちが日常と呼んでいる、基本的な相互人権の意識のあるものに限ります。もちろんそれがもはや、体育系の跋扈が原因で、日常どころか理想郷扱いになっているかもしれませんが。
 潜在的なものも含め以下の環境の者は精神疾患です。そもそも精神衛生が保全されていません。よって、これらは全てだから全部潜在的精神疾患として扱って何もおかしくありません。

・ 月残業が不法
・ 従事勤務内容自体が不法(パワハラ、「能力ガー」等)
・ 逆に週4,5日並みの共同作業が困難(但し生産か否かはあまり関係しない。なお共同作業の内容が大幅に異なっても、挨拶などの若干の交流があることに意義がある)
・ 善悪ではなく、それを方便として、声の大小で、すぐに離別させられる恐れのある環境に置かれている者(ワーキングプワなど。体育系などの非人間を除き、こんな環境であれば、多少の叱責すらとんでもない脅威と感じて当たり前です)

 年金老人たちへ。これの比率は1割ではありません。少なく見積もって若者には6割です。
 加えて言わせてもらいましょう。
 これだと少子化対応は、「1人の配偶者、2人の子ども」が幸せ。というのが無意識のうちに成り立たなくなります。
 年金老人のような環境を偶然手に入れられたとしても、これだと、あなたは子どもを4人設けでもしないと、無意識のうちに幸せと感じることはできないでしょう。

・ 配偶者が専業主士でなくなった
・ 後ろに配偶者の見えないコンビニ店員が爆発増加した
・ 選挙の投票時間が18時から20時に延長された

 年金老人たちの手によって、不自然、不気味な状況や政策はほぼ同時期に始まっていました。
 言うまでもありませんが、私たちの生活水準はスマホ以外何も変わっていません。それ以外は全て年金老人たちの道楽嗜好によってもたらされたものです。
 当然ながらこれは、「厚生・労働」はもちろんのこと「交通・経済」根元から見直さないといけない内容です。
 このため、「敬老」という本朝古来の精神は見るも無残な状況となり、「老害」との言葉が主流となりました。このままでは、あっという間に、「敬老の日」は、平成後期以降は、「老害退治の日」に名前を変えないといけません。
 人間である以上、体育系や動物のような行為をしていては、自分に対して、が精神的疾患として、悲しいという感覚を抱くのは当たり前です。
 本朝には「人の悲しみを我がこととする」という言葉があります。これは自発的促進を促したものです。そして本朝はこれができるものほど優れた人物とにみなしてきました。なお、これが所謂「明治・東京奠都レジーム」によって壊滅的な打撃をこうむったことはいうまでもありません。
 一方、東名及びその一味である東日本ではない西日本には、最澄の時代から、「一切衆生悉有仏性」という言葉がありました。
 HSPとは即ち、「人の悲しみを我がこととする」ことを自発的にする度合いの者のことでもあります。もちろんそれは当たり前の日常の光景です。
 一方、人に悲しみを見てけらけら嗤う者はHSPの度合いの低い、いわば低存在の価値の生き物です。
 とはいえ、HSP、「人の悲しみを我がこととする」ことは、たとえ周囲からどのような侮蔑をされようとも、最低限の人間の行為として自発的に行われることが多いですが、一方、「一切衆生悉有仏性」という言葉が示す通り、この行為は本来人間として自然に備わっているものです。
 よって、この問題は、人々にとっては、特別の精神疾患者どころか、人々の「共有問題」であるとの認識が不可欠です。
 もちろん、そこに、学習、消費、交流、そしてとくに「生産活動かどうか」などの区別を設けることは愚の骨頂であるといえます。
 逆に言えば。HSPの高い人間は、通常よりもはるかに優れた人間ですので、決して、どれか一つをとって、自分はみんなから嫌われている、などと思わずに、生産、消費、学習、交流などを問わず、そこに所属することは、はるかに優れた人間であると言えます。



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