随並188 (タイトル欄ではタイトルを省略します)
※ 投稿日が日付を超えてしまっていますが17.01.08執筆扱いとします。
随並188
タイトル;
「有認識過失」「未必の故意」などに、それぞれ「共有性」、さらにはそれぞれ「対話による善悪から護身術による強弱へのすり替え」が加わった、「劣等感に対する適応機制」が生み出す、「善悪反転」という「第二末法」について
故意と過失には四通りあります。すなわち、「認識なき過失(以下無認識過失)」、「認識のある過失(以下有認識過失)」、「未必の故意」、「故意」です。仏教の六道+四聖の十界とはまた別ですね。如来であっても謗法をすることもあるのですから。いずれの場合も、それによって生じた侵害が許容できるものでないと主観的に感じた側には補償請求ができます。即ち、冗談のつもりであっても、本気にさせてしまった側に責任があります。
それぞれ詳しく書きますと、まず、無認識過失とは文字通り気付かず想定もできなかったものです。自動車でいえば、こちらが青信号なのに横断歩道に人がいた、といった場合です。あるいは、自動車の通過した水たまりの水が人にかかった場合など。これは、特に晴れの日などは、自動車側は歩行者や信号には注意しても水たまりまでは気付かないということもあるでしょう。
また、過失であっても、損害を受けた側には実損が発生していますので泣き寝入り防止の観点から基本的にはこれを補償することになります。
自動車などは交通事故が多発していますので抑止の観点からも無認識過失であってもはねた側には30%の過失割合が発生します。とはいえ70%ははねられた側でしかも大ケガをするのもそちらですが。
なお電車は無認識過失の場合はねた側は0%です。あれはそもそも数百メートルは止まれないものですので、逆にはねられた側が100%の遅延損害を補償することになります。
但し過失が未成年や精神鑑定のいる者の場合、その代理者は、あくまで、一般的な注意さえしていればその責は逃れられ0%になるというのが最近の判例です。もともと法はそうだったので法に判例が追いついたということです。たとえば放課後の子どものサッカーボールで大ケガをさせたとか、痴呆老人が電車に遅延損害を発生させたが介護側も要介護の者だったなどで、これらは、もはや、代理側も、一般的な注意をしていれば、それ以上は、自然災害とよく似た扱いになってきています。
また、掃除当番のゴミ捨ての作業をしていたところたまたま友人に出くわし、その友人が持っていた物を、一緒に捨てるように頼まれていたゴミと勘違いするとか、修学旅行の際に友人が表紙絵で京都のガイドブックを持っていたので、その先で行った奈良公園という場所を京都で有名な観光地と勘違いする、といった行為もたいていは無認識過失になります。一応疑問形にしていますが、あれはあくまで自分の内面としてまずは疑問から始まりますのでそれを口にしているだけで、その直後に一瞬、それ以外の可能性はまずないとして断定していると思われます。
無認識過失は、双方がともに異なった情報を受けており概ね双方に正当性と責任がありうることの多い「誤解」や、概ね一方に責任があることの多い「不注意」などが原因であることが多いです。上記の場合、水たまりは不注意の可能性が大きいでしょうが、きんモザなどは、「この状況でそれを自分宛の誕生日プレゼントだとは思えない」「奈良が京都と異なるという情報が不足している」ということを考慮すればこれはアリスや奈良にも過失があるともいえなくもないのですがそのようなことはシノはしないと思われます。また無認識過失の段階の場合は謝罪・補償への対応も比較的期待できます。
さて問題はここからです。有認識過失とは、赤信号だが、この歩道はいつも誰も通っていないから「大丈夫だろう」というものです。一方、未必の故意とは、赤信号で、歩行者が何名かいるが、先を急ぎたい、あのうちの何名かをはねてしまっても「仕方がない」というものです。ちなみに故意は100%はねることを認識している場合です。
アリスなどは、シノがこっそり隠していた本を、プライバシーの侵害が明白と感じながらも、「シノは優しいから大丈夫だろう」とやってしまっており、こちらは比較的有認識過失のことが多いです。なお有認識過失下では許される場合もあります。先述の冗談でふざけあっている場合などがそれで、「スマンスマン」程度の軽い謝罪でも済むこともあるからです。もちろん人をはねたりした場合にこれはないでしょうが。
また未必の故意(場合によっては故意も)も許される場合があります。これは例えば映画のように時速80km以下に速度を落とすと車内の爆弾が爆発するような場合です。あるいは、ホームドアの整備や津波の防波堤など、有った方がいいことはわかるものの、社会政策レベルで何年もかけて予算を編成しないとできないようなものです。後者などは現行上は無認識過失で処理される判例が多いのですが、私などは「正当な未必の故意」といった趣旨のものではないかとも考えています。
ただしこの正当な未必の故意はいわば真宗の悪人正機のようなハイレベルの限界状況です。悪人正機は、人はどうやっても100%のことはできずだから常に前進するといった趣旨です。ですのでその判断に合理性が尽くされたかどうかが問われることになるでしょう。例えば優れた武将の元では自己犠牲も厭わないというのはその武将の判断に合理性が認められるからです。逆に謀反を起こされるのは合理性を欠いており無駄死にになりそうな場合です。これを避けるにはたとえ劣等感を感じたとしても先方の方が優れていると感じた場合には自論を撤回しないといけませんし、過去に述べた通り、本来は直接民主制が妥当であって、代理権の範囲は時間的制約や人数に比例して段階的に縮小されると認識していないといけませんが。正当な未必の故意の概念自体は否定できませんが、これは相当の限界状況です。安易に用いても合理性を疑われることもあるでしょう。無認識過失が誤解や不注意なのに対しこの有認識過失、未必の故意の二項目は「慢心」などが中心になっていそうです。
現在社会問題状態となっているのはこの二項目です。無認識過失の場合は侵害の発生を伝えることでの謝罪、補償が期待できます。問題はここからです。この二項目の場合、罪科が既に認識状態である以上、劣等感が発生し、謝罪や補償が必要となるのですが、この劣等感からの適応機制で用いられる事例が多いのです。さらに、これらに、「みんなやっている」という「共有性」が加わることがあるのですが、これは何の弁解にもならず、むしろ侵害の罪科を悪化させることの方が多いです。人をはねたときには「自分の運転技術」などが問われるでしょうが、そこに「みんなやっている」は何の関係もありません。
この、「大丈夫だろう―有認識過失―」「(本当はもっと詰められるかもしれないが)仕方がない―未必の故意―」、さらには、これらにそれぞれ「みんなやっている―共有性―」が加わり、「劣等感」と本来必要であるはずの謝罪や補償からの「適応機制」として用いられることが往々にしてあります。
さて許容範囲を超えた人権侵害が発生した場合(過去に書いた通り、ふざけて殴り合っていたとして、その許容を超えているかどうかはそれを受けた当人に決める権利があるのはいうまでもありません)、基本的にはそれは想定外であることが多いです。振り込め詐欺も、そうしたものが流行っていると銀行からのアナウンスがあるまでは相手は銀行員と思ってしまうでしょう。あるいはホームで突然暴漢に線路に落とされた場合など。
従って、振り込め詐欺は騙される方が悪い、騙される方が警戒心のないぬるま湯、などという批判は不適切です。どんなに性善な者であっても家の鍵くらいは閉めます。それでも信用ができるから、ホームでは暴漢が暴れてくるかもしれないなどという警戒をする者など皆無のはずです。
つまり、性善と批判される者も、性悪の可能性を認めていないわけではありませんし、また逆に、誰も信じないなどと口では言っている者も、ホームでは突き落とされるかもしれないとまではピリピリはしていないはずです。
で、人は感情移入の生き物ですので、振り込め詐欺、ホーム突き落としなどの想定外の人権侵害に対し、悲嘆や憤慨を感じるはずです。
過去の末法対策として例えば歎異抄などがありました。タイトルの通り異説を嘆いているものです。この嘆きが末法に対して有効な対策として採られてきました。
現代の第二末法状態の場合この有効性が薄れます。本来、謗法、つまり、教えを謗る、というのは、弥陀がわざわざ別記でついカッとなって本意でないにもかかわらず憤慨のあまり「除外」と言ってしまったレベルの行為です。
謗法はちょうど反抗期の発想です。反抗期は反抗する対象がないと成りたちません。あくまでも、交通ルールは守られる、という認識があって始めてそれに反抗するのであって、全員が自分と同じことをやりだすと危うい、ということを無意識下で認識しているものです。
「社会保障は甘え」「障害者は害悪」といったことを言う者が跋扈していますが、これも同じようなもので、あくまで社会保障は維持されるという認識を無自覚にしていて初めて言っているもので、この言っている内容を実行して餓死者が一人出たり相模原が発生した時点で、本当に甘えていたのはどちらか、と再認識させられることになるのです。
ところが昨今、成人式などの例を見ればわかる通り、この、反抗期の者が用いる、「自分は反抗期だ」という言葉が、「自分は社会人だ」になっています。
こういう悪質な用いられ方をされてしまうと、「社会」という言葉を低次高次の二つに分ける必要が出てきます。
「低次社会における社会適応能力は、高次社会では反社会である」ということを指摘する必要があります。謗法という、弥陀が本意を忘れてまでの憤りを示す行為である「反抗期」が、「一般社会」扱いになっているのですから。この「善悪反転」は、末法が末法であることすら気付かれていないという点において、「第二末法」とでも呼べるでしょう。
悲嘆、憤慨は人の感情としてはハイレベルなものであることはいうまでもありません。歎異抄がハイレベルな書物であることがその証左です。
ところが、末法の者たちがその対策として提示した歎異抄などの末法対策の効果が薄れます。これは末法の者たちですら想像もつかなかった緊急かつ悪質な事態で、これを私は第二末法と呼んでいます。
第二末法期である昨今では、悲嘆などのこのハイレベルな感情に対して、「(自称)一般社会」の者たちが、例えば、「弱そう(笑)」という反応を示します。
この「強弱」は何かと言うと、「(個別的または集団的)護身術」の「強弱」です。「善悪」を「強弱」と言い換えているのではありません。
つまり、「対話」による対応を実施したところ、「護身術」の物差しを持ってこられたことになります。これも適応機制でしょう。
「有認識過失」や「未必の故意」、これらにそれぞれマズい方向に「レベルアップ」しての「共有性」が加わる場合もあり、計四通りはある、劣等感が発生することに対する適応機制ですが、さらにもう一段レベルアップして、この「(とくに悲嘆や憤慨などに対する)対話による善悪の強弱での判断から、護身術の強弱、換言すれば、防犯ブザーの所持の有無での判断へのすり替え」が加わる場合もあるでしょうから、計八通りは出てきました。
護身というものはやろうと思えば本来誰でもできるものです。あかりですら、駅で蚊が出たときに虫よけスプレーに気付くまでは無自覚のうちに蚊に当たる可能性もあったにもかかわらず手で払っているのですから。
そのうえで、相手の場合は護身術の必要のない「対話の通じる相手」であると信じ、上述のようなことになってしまうと、実は相手は人ではない蚊だったとの認識をさせられ、「単に狙いを定めるだけの対象」とならざるを得ないということになってしまいます。もちろん人である以上これは悲嘆以下に残念なことであり、また人である以上そのような状況は一時的なものであり、再度、そのような護身術は必要のない相手であると信じられることになるということは信じられます。
信用によって成り立っているので司法介入といったことは私たちの生活では稀なことでしたが、それを逆手にとっての侵害が横行する状況下にあります。本来、司法を活用する権利は、侵害原状回復のために、それをなしたいと思った者が思ったときに自由にあるものですが、これを否定してまでの侵害の横行が目立つ状況にあります。
私たちの今後の方向は、「基本的相互人権の維持」及び「それが主観によって許容できないと感じたときの補償」の二つしかなく、それ以外の「しがらみ」はやめなければなりません。
「仲良しごっこ」という言葉は、私は、グループを作っておきながら、巡回的に、その場にいない者の陰口をその都度言うようなグループに対して用いることがありますが、この言葉を濫用し、前者の基本的相互人権維持状態を揶揄する意味で用い、さらに、逆に、低次のしがらみ状態を「大人の社会/コミュニケーション」と言ったりと、ある意味で見事なまでの悪質な言葉の濫用、さらには、「善悪から強弱へのすり替え」が第二末法期では発生します。
感情移入という人の本質的行為が成立せず、一時的に害虫からの護身をするかのような扱いになってしまうのですが、しかしこの範囲は、私たちの適切な対応次第で、すぐに再び、「(自称)一般社会」から「反抗期」へ、そして「謗法の者」へと縮小されていくものと思われます。
随並188
タイトル;
「有認識過失」「未必の故意」などに、それぞれ「共有性」、さらにはそれぞれ「対話による善悪から護身術による強弱へのすり替え」が加わった、「劣等感に対する適応機制」が生み出す、「善悪反転」という「第二末法」について
故意と過失には四通りあります。すなわち、「認識なき過失(以下無認識過失)」、「認識のある過失(以下有認識過失)」、「未必の故意」、「故意」です。仏教の六道+四聖の十界とはまた別ですね。如来であっても謗法をすることもあるのですから。いずれの場合も、それによって生じた侵害が許容できるものでないと主観的に感じた側には補償請求ができます。即ち、冗談のつもりであっても、本気にさせてしまった側に責任があります。
それぞれ詳しく書きますと、まず、無認識過失とは文字通り気付かず想定もできなかったものです。自動車でいえば、こちらが青信号なのに横断歩道に人がいた、といった場合です。あるいは、自動車の通過した水たまりの水が人にかかった場合など。これは、特に晴れの日などは、自動車側は歩行者や信号には注意しても水たまりまでは気付かないということもあるでしょう。
また、過失であっても、損害を受けた側には実損が発生していますので泣き寝入り防止の観点から基本的にはこれを補償することになります。
自動車などは交通事故が多発していますので抑止の観点からも無認識過失であってもはねた側には30%の過失割合が発生します。とはいえ70%ははねられた側でしかも大ケガをするのもそちらですが。
なお電車は無認識過失の場合はねた側は0%です。あれはそもそも数百メートルは止まれないものですので、逆にはねられた側が100%の遅延損害を補償することになります。
但し過失が未成年や精神鑑定のいる者の場合、その代理者は、あくまで、一般的な注意さえしていればその責は逃れられ0%になるというのが最近の判例です。もともと法はそうだったので法に判例が追いついたということです。たとえば放課後の子どものサッカーボールで大ケガをさせたとか、痴呆老人が電車に遅延損害を発生させたが介護側も要介護の者だったなどで、これらは、もはや、代理側も、一般的な注意をしていれば、それ以上は、自然災害とよく似た扱いになってきています。
また、掃除当番のゴミ捨ての作業をしていたところたまたま友人に出くわし、その友人が持っていた物を、一緒に捨てるように頼まれていたゴミと勘違いするとか、修学旅行の際に友人が表紙絵で京都のガイドブックを持っていたので、その先で行った奈良公園という場所を京都で有名な観光地と勘違いする、といった行為もたいていは無認識過失になります。一応疑問形にしていますが、あれはあくまで自分の内面としてまずは疑問から始まりますのでそれを口にしているだけで、その直後に一瞬、それ以外の可能性はまずないとして断定していると思われます。
無認識過失は、双方がともに異なった情報を受けており概ね双方に正当性と責任がありうることの多い「誤解」や、概ね一方に責任があることの多い「不注意」などが原因であることが多いです。上記の場合、水たまりは不注意の可能性が大きいでしょうが、きんモザなどは、「この状況でそれを自分宛の誕生日プレゼントだとは思えない」「奈良が京都と異なるという情報が不足している」ということを考慮すればこれはアリスや奈良にも過失があるともいえなくもないのですがそのようなことはシノはしないと思われます。また無認識過失の段階の場合は謝罪・補償への対応も比較的期待できます。
さて問題はここからです。有認識過失とは、赤信号だが、この歩道はいつも誰も通っていないから「大丈夫だろう」というものです。一方、未必の故意とは、赤信号で、歩行者が何名かいるが、先を急ぎたい、あのうちの何名かをはねてしまっても「仕方がない」というものです。ちなみに故意は100%はねることを認識している場合です。
アリスなどは、シノがこっそり隠していた本を、プライバシーの侵害が明白と感じながらも、「シノは優しいから大丈夫だろう」とやってしまっており、こちらは比較的有認識過失のことが多いです。なお有認識過失下では許される場合もあります。先述の冗談でふざけあっている場合などがそれで、「スマンスマン」程度の軽い謝罪でも済むこともあるからです。もちろん人をはねたりした場合にこれはないでしょうが。
また未必の故意(場合によっては故意も)も許される場合があります。これは例えば映画のように時速80km以下に速度を落とすと車内の爆弾が爆発するような場合です。あるいは、ホームドアの整備や津波の防波堤など、有った方がいいことはわかるものの、社会政策レベルで何年もかけて予算を編成しないとできないようなものです。後者などは現行上は無認識過失で処理される判例が多いのですが、私などは「正当な未必の故意」といった趣旨のものではないかとも考えています。
ただしこの正当な未必の故意はいわば真宗の悪人正機のようなハイレベルの限界状況です。悪人正機は、人はどうやっても100%のことはできずだから常に前進するといった趣旨です。ですのでその判断に合理性が尽くされたかどうかが問われることになるでしょう。例えば優れた武将の元では自己犠牲も厭わないというのはその武将の判断に合理性が認められるからです。逆に謀反を起こされるのは合理性を欠いており無駄死にになりそうな場合です。これを避けるにはたとえ劣等感を感じたとしても先方の方が優れていると感じた場合には自論を撤回しないといけませんし、過去に述べた通り、本来は直接民主制が妥当であって、代理権の範囲は時間的制約や人数に比例して段階的に縮小されると認識していないといけませんが。正当な未必の故意の概念自体は否定できませんが、これは相当の限界状況です。安易に用いても合理性を疑われることもあるでしょう。無認識過失が誤解や不注意なのに対しこの有認識過失、未必の故意の二項目は「慢心」などが中心になっていそうです。
現在社会問題状態となっているのはこの二項目です。無認識過失の場合は侵害の発生を伝えることでの謝罪、補償が期待できます。問題はここからです。この二項目の場合、罪科が既に認識状態である以上、劣等感が発生し、謝罪や補償が必要となるのですが、この劣等感からの適応機制で用いられる事例が多いのです。さらに、これらに、「みんなやっている」という「共有性」が加わることがあるのですが、これは何の弁解にもならず、むしろ侵害の罪科を悪化させることの方が多いです。人をはねたときには「自分の運転技術」などが問われるでしょうが、そこに「みんなやっている」は何の関係もありません。
この、「大丈夫だろう―有認識過失―」「(本当はもっと詰められるかもしれないが)仕方がない―未必の故意―」、さらには、これらにそれぞれ「みんなやっている―共有性―」が加わり、「劣等感」と本来必要であるはずの謝罪や補償からの「適応機制」として用いられることが往々にしてあります。
さて許容範囲を超えた人権侵害が発生した場合(過去に書いた通り、ふざけて殴り合っていたとして、その許容を超えているかどうかはそれを受けた当人に決める権利があるのはいうまでもありません)、基本的にはそれは想定外であることが多いです。振り込め詐欺も、そうしたものが流行っていると銀行からのアナウンスがあるまでは相手は銀行員と思ってしまうでしょう。あるいはホームで突然暴漢に線路に落とされた場合など。
従って、振り込め詐欺は騙される方が悪い、騙される方が警戒心のないぬるま湯、などという批判は不適切です。どんなに性善な者であっても家の鍵くらいは閉めます。それでも信用ができるから、ホームでは暴漢が暴れてくるかもしれないなどという警戒をする者など皆無のはずです。
つまり、性善と批判される者も、性悪の可能性を認めていないわけではありませんし、また逆に、誰も信じないなどと口では言っている者も、ホームでは突き落とされるかもしれないとまではピリピリはしていないはずです。
で、人は感情移入の生き物ですので、振り込め詐欺、ホーム突き落としなどの想定外の人権侵害に対し、悲嘆や憤慨を感じるはずです。
過去の末法対策として例えば歎異抄などがありました。タイトルの通り異説を嘆いているものです。この嘆きが末法に対して有効な対策として採られてきました。
現代の第二末法状態の場合この有効性が薄れます。本来、謗法、つまり、教えを謗る、というのは、弥陀がわざわざ別記でついカッとなって本意でないにもかかわらず憤慨のあまり「除外」と言ってしまったレベルの行為です。
謗法はちょうど反抗期の発想です。反抗期は反抗する対象がないと成りたちません。あくまでも、交通ルールは守られる、という認識があって始めてそれに反抗するのであって、全員が自分と同じことをやりだすと危うい、ということを無意識下で認識しているものです。
「社会保障は甘え」「障害者は害悪」といったことを言う者が跋扈していますが、これも同じようなもので、あくまで社会保障は維持されるという認識を無自覚にしていて初めて言っているもので、この言っている内容を実行して餓死者が一人出たり相模原が発生した時点で、本当に甘えていたのはどちらか、と再認識させられることになるのです。
ところが昨今、成人式などの例を見ればわかる通り、この、反抗期の者が用いる、「自分は反抗期だ」という言葉が、「自分は社会人だ」になっています。
こういう悪質な用いられ方をされてしまうと、「社会」という言葉を低次高次の二つに分ける必要が出てきます。
「低次社会における社会適応能力は、高次社会では反社会である」ということを指摘する必要があります。謗法という、弥陀が本意を忘れてまでの憤りを示す行為である「反抗期」が、「一般社会」扱いになっているのですから。この「善悪反転」は、末法が末法であることすら気付かれていないという点において、「第二末法」とでも呼べるでしょう。
悲嘆、憤慨は人の感情としてはハイレベルなものであることはいうまでもありません。歎異抄がハイレベルな書物であることがその証左です。
ところが、末法の者たちがその対策として提示した歎異抄などの末法対策の効果が薄れます。これは末法の者たちですら想像もつかなかった緊急かつ悪質な事態で、これを私は第二末法と呼んでいます。
第二末法期である昨今では、悲嘆などのこのハイレベルな感情に対して、「(自称)一般社会」の者たちが、例えば、「弱そう(笑)」という反応を示します。
この「強弱」は何かと言うと、「(個別的または集団的)護身術」の「強弱」です。「善悪」を「強弱」と言い換えているのではありません。
つまり、「対話」による対応を実施したところ、「護身術」の物差しを持ってこられたことになります。これも適応機制でしょう。
「有認識過失」や「未必の故意」、これらにそれぞれマズい方向に「レベルアップ」しての「共有性」が加わる場合もあり、計四通りはある、劣等感が発生することに対する適応機制ですが、さらにもう一段レベルアップして、この「(とくに悲嘆や憤慨などに対する)対話による善悪の強弱での判断から、護身術の強弱、換言すれば、防犯ブザーの所持の有無での判断へのすり替え」が加わる場合もあるでしょうから、計八通りは出てきました。
護身というものはやろうと思えば本来誰でもできるものです。あかりですら、駅で蚊が出たときに虫よけスプレーに気付くまでは無自覚のうちに蚊に当たる可能性もあったにもかかわらず手で払っているのですから。
そのうえで、相手の場合は護身術の必要のない「対話の通じる相手」であると信じ、上述のようなことになってしまうと、実は相手は人ではない蚊だったとの認識をさせられ、「単に狙いを定めるだけの対象」とならざるを得ないということになってしまいます。もちろん人である以上これは悲嘆以下に残念なことであり、また人である以上そのような状況は一時的なものであり、再度、そのような護身術は必要のない相手であると信じられることになるということは信じられます。
信用によって成り立っているので司法介入といったことは私たちの生活では稀なことでしたが、それを逆手にとっての侵害が横行する状況下にあります。本来、司法を活用する権利は、侵害原状回復のために、それをなしたいと思った者が思ったときに自由にあるものですが、これを否定してまでの侵害の横行が目立つ状況にあります。
私たちの今後の方向は、「基本的相互人権の維持」及び「それが主観によって許容できないと感じたときの補償」の二つしかなく、それ以外の「しがらみ」はやめなければなりません。
「仲良しごっこ」という言葉は、私は、グループを作っておきながら、巡回的に、その場にいない者の陰口をその都度言うようなグループに対して用いることがありますが、この言葉を濫用し、前者の基本的相互人権維持状態を揶揄する意味で用い、さらに、逆に、低次のしがらみ状態を「大人の社会/コミュニケーション」と言ったりと、ある意味で見事なまでの悪質な言葉の濫用、さらには、「善悪から強弱へのすり替え」が第二末法期では発生します。
感情移入という人の本質的行為が成立せず、一時的に害虫からの護身をするかのような扱いになってしまうのですが、しかしこの範囲は、私たちの適切な対応次第で、すぐに再び、「(自称)一般社会」から「反抗期」へ、そして「謗法の者」へと縮小されていくものと思われます。